2024.05.10 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(155)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
12 第3次7年路程を走り抜くに当たって
(1976年10月12日 東京教会)
先生のために涙する譽進様
だから神の立場、公的な立場、あるいは心情の復活は、主体・対象の関係をよく授受すれば、天運はその基台の上で現れると、こうなっているのです。それから私たちの存在基台が、そういう関係の中でできるのです。アベルと自分です。また自分がアベルになってカインと自分との関係があるのです。だから私たちは、アベルを二人もっているのです。
カインの立場のアベルと、天の立場のアベルと、二人もっているのですが、その二人の前に自分がよく通ずる人間になったら、三位基台になるのです。三位基台を決めて通じようとしないで、自分が通じて、三位基台になるのです。
「だれだれが三位基台です」、こう言うよりも、通ずる人と通じて三位基台になるのです。ほとんどの人が三位基台はだれだれ。「彼はどこか行った」とか、「三位基台をやめた」とか、「三位基台はアメリカに行った」とかこう言って、もったいない時間を失う人が多いのです。生活内で通じればいいのです。侍る人、通じる人、どこへ行っても通じれば三位基台です。生活圏内で、生活心情を復活させるには、離れた人とはできないのです。今いる人と通じるのです。それでこれから私たちは基台をつくりながら、完成し、復活する時、実る時です。現れる時です。
今回、先生が一番主張されたのは、今度の大会のあとに「100パーセントみ言(ことば)の実体になれ」ということと、「愛の実体となれ」ということの二つを話されました。み言と自分の関係、これさえよく授受でき、み言的な自分になれば、これと愛の問題はくっついたものです。
み言的な自分になれば、これはもう生命の実体だから、愛も自然に現れます。み言の実体ならば愛であるし、愛とみ言の実体です。二つは一緒なのです。自分が本当にみ言に熟して暮らしているか、み言的なのか。み言の前に自分は否定されて、み言が本当に主体になっているかを知る必要があります。
けれども、「み言はみ言で、自分は自分だ」と、これは問題なのです。これでどういうふうにして受肉し、熟しますか。み言に熟した人は、公的には通じるし、自分という人間にとらわれていないのです。これが一番貴重だと思うのです。
祈祷生活の中に、み言に感化を受けて涙したことがあると思います。自分を心配する人は、み言に熟しにくいのです。主体者を心配すれば、熟しやすいのです。主体者をいつも心配する人は、み言に熟しやすいのです。先生を素晴らしく思うよりも、かわいそうに思う人は、み言と一体になりやすいのです。先生を素晴らしく思う人は、ちょっとみ言と距離があるのです。
先生は、かわいそうな人です。私たちがみ言に徐々に近づいていくことによって、先生はかわいそうな人だということを知ります。譽進(イェヂン)様はお父様のお話をされる時に、「お父様がかわいそうだ」と言って、いつも泣かれるのです。この間も、今度のワシントン大会のあとに、「譽進様、何か感想を話してください」と言ったのですが、泣きながらお話しされるのです。
また、夏休みに韓国に来られて、大勢の食口(シック)の前に立ってあいさつしていただいたのです。お父様のことを話しながら、また泣き始めて、話せなくなったのです。
それから、中学生たち約50名近く、祝福家庭の学生が清平(チョンピョン)修練所に集まったことがありました。そこで、「この場所へ来て喜んでいるけれども、お父様はどうか」と言いながら、また泣きながら話されるのです。譽進様は、お父様のお話をする時、いつも泣かれるのです。だから先生を素晴らしく思うよりも、本当にかわいそうに思っておられるのです。
譽進様は、もちろん私たちのような内容の苦労の経験はありませんが、涙が多いのです。皆さんも、生活路程において、何か基準が上がるとか、下がるとかあるでしょう。
その下がる時に、天はかわいそうだと実感する人は、み言に熟する人です。苦しい時には自分が苦しいと思うと、み言と自分と分立されてしまうのです。み言が熟する時はいつかというと、下がる時なのです。
上がる時は、主体者によって上がるので分からないのです。上がる時も泣く人は、主体者の立場に立った人なのです。上がる時喜ぶ人は、ちょっとみ言と離れてしまいます。分かりますか。自分がうれしいからうれしいと、自分を喜ばせたいのです。
人の立場で受ける人は、内面の事情を知る人なのです。だから皆さんも、下がる時の多い人は、相当成長する人です。
家庭的に複雑になった時も、「神様は、6000年間の人類の不信仰を担当しての悲しみを、私にも味わわせてくださった」と言ってそれを祝福と思う人は、神の言うに言えない深いところを味わう人なのです。その時が、祝福される時だということを知っているでしょう。
十字架の時とか、ヤコブが石のまくらをした時とか、牢屋の時とか、ほとんどの有名な信仰者たちは、そういう死亡路程で、神様と永遠に情が結ばれたのです。
---
次回は、「愛の関係を見せる時」をお届けします。