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心情開拓
心霊を育てる生活原則(154)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

12 第37年路程を走り抜くに当たって
(1976年1012日 東京教会)

▲李耀翰先生

心情のアベルをもちなさい

 ムン、不思議に大先生の姓がムンです。不思議です。だから私たちのお互いの関係がムンです。それを通らなくてはならないから門なのです。

 私の門は、この人である。この人の門は私であると。お互いに通じなくてはなりません。これが、私たちの生活圏で神の立場に立つということです。

 それをほっておけば、方向、主体者、み旨、無形世界に対して、いくら自分がどうしようとも、自分の位置が決まらないのです。

 基台がないと、いくら無形世界に対して信仰しても、漠然としたものになるのです。3次路程に来てみると、明らかになってきたでしょう。

 だから、カインはいるけれど、アベルがいない。ほとんどの復帰路程において、カインはたくさんいるようだけれども、アベルがいない。み言(ことば)を聞いてみると、伝道しなければならない。伝道する相手はいるけれども、私のアベルはいない。ではみ言がアベルか、もちろん、み言もアベルです。み言も、アベルはアベルです。しかし、実体的アベルはいないのです。

 だれにいないのかというと、さっき話したように、教会に長くいる人は、アベルがいないのです。なぜかというと、自分はもう何十年になった、十何年にもなった、だから教会長も、私よりあとの者だという気持ちになるのです。古くなった人は、アベルがいないのです。あとの者がみな教会長になっているから、その人を通じたくないのです。その人は私を通じるなら通じなさい。私は、そういうあとの者に通じたくないと、こうなるのです。

 先に来た人は、自分があとになったにもかかわらず、先に行こうとするので、情が通じないのです。だから古い人たちは、尊敬心がなくなったのです。欠点をたくさん見たからです。お互いに暮らしてみると、欠点を見てしまったのです。夫婦になっても、お互いに欠点が見えてしまうと、かえって婚約していた当時よりも通じにくく、引かれていかないのです。

 道端に出て、知らない人と通じたくなるのです。世間で、ほとんど知らない人と通じたがるのです。あいさつでも、お互いに長く暮らしてきた人に、「おお来たか」と、あいさつもしたくないのです。知らない人にはあいさつしたいけれども、知っている人にはあいさつしたくないのです。こうなってしまうのです。情的に開発しない人は、ほとんどそうなってしまうのです。

 人間的に考えてしまうからです。その人の価値を知ろうとしないのです。その人の内的な事情を自分が知ろうとしない、自分との交流をもちたくないのです。

 不思議です。堕落した私たちは、知らない人には関心をもつ。知っている人には、無関心。夫婦では互いに無関心。新しい人には関心をもつ。日本人はそうではないかもしれませんが、しようがないです。自分の力ではどうにもできないのです。

 だから、主体者の力によって私たちが復活するし、成長も主体者の愛によって成長するのだから、その関係が切れると、自然に押し出されるのです。自分がいくら決意したって、押し出されるのです。だから自分が率直にこういう人をもっているか、それから私たちの雰囲気の中で、そのように自分というものを包んでいる者はいないかと、いつも見なくてはなりません。

 そういう人がいた場合には、発見した人がその人を貴重に思えば、その人の秘密の袋を、私に任せます。みなほどきます。そういうふうにして、内的な交流をなせば、これは本物がいるから発展せざるを得ないのです。それをほっておいて発展しようとしても、一生懸命に走っても、どんどん流れてしまいます。砂に水をかけるのと同じです。どんどん沈んでしまいます。

 霊界が総動員しても、協助しているのか、していないか分からないでしょう。分からない人がいるのです。「霊界が総動員したといっても、ちっとも現れないじゃないか。私はいくら祈祷しても、私の言うとおりに協助しないじゃないか」と思いやすいのです。霊界が総動員するのは愛のあるところ、憐(あわ)れみがあるところには、力強く出ていくのです。

 憐れみのないところでは、協助霊たちが苦しんでいるのです。霊は愛によって出てくるのですから、主体と対象が基準をもって授受するところに、霊力が現れるでしょう。それから、怨讐(おんしゅう)のために気の毒になって泣けば、その怨讐が罰せられます。だから、怨讐を愛せば、霊界は怨讐を罰するのです。だから、怨讐を罰する方法は、怨讐を愛することです。憐れみを通じて霊界は活動するというか、影響するのです。

 それで教会に古くなった人たちが、アベルを失って、霊的にストップ状態、涸(か)れた状態になっている人が多いのです。

 復活した人は、いつも自分がきょうから出発、きょうが始まりのように感じるのです。それから兄弟といつも会っていても、初めてのように感じるのです。このような人は、復活した人です。これは本当に、新鮮な心情をもった人です。そういう人は、習慣的な生活をしていないのです。つまり、情に刺激を受けながら暮らす人なのです。そういう人は、本当に成長する人、そして自分を分別できる人です。

 親が自分の子供を見る心は、自分が生んで自分が育てたけれども、見ると、いつも違うのです。いつも初めて見るような気がするのです。子供を育てた親たちに聞けば分かるのです。いつ見ても初めて見たように感じるのです。それで顔を見たり、足を見たり、何か言わせてみたり、外へ行って刺激を受けたのを聞きたがるのです。親の心がそうなのです。忙しい時には、ほっておくかもしれないけれども。

 私たちの教会では、伝道を一生懸命にして、献身して一生懸命しようとしたら、霊的問題をほっておいて、仕事ばかりさせる責任者が多いから、疲れてやめてしまう人がいるでしょう。

 み旨に燃えて熱心になると、内的問題に関心をもたないのです。教会に利用しようとするように、その人を使って、霊的にはほっておく場合があるのです。その人の内的な心情を聞こうともせず、関心ももたないものだから、一人で包んで3カ月ぐらいになったら流れ出てしまうのです。

 だから、私は、情の通ずる人をもっているか。もっていなかったら大変です。いつか去ってしまうのです。霊界で押し出すのです。自分で出るのではないのです。情が切れると霊界で押し出すのです。だから自分の情の基準を高めずに、ただ、時がこうなのになぜ現れないのだろう、なぜ私たちを迫害する者が、あんなに元気にはつらつと動いているのだろう。こういうふうに思っては、そう思うその人が罰せられるのです。

 思うその人がやられるのです。かえって、自分が危ないのです。「原理」は聞いたし、「時はこうだ」と言うが、そうなるか見ていよう。こういう見物の立場に立った者が、かえって危ないのです。だから「憐れみをもて」というのが霊界の願いです。協助霊です。

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 次回は、「先生のために涙する譽進様」をお届けします。


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