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心情開拓
心霊を育てる生活原則(153)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

12 第37年路程を走り抜くに当たって
(1976年1012日 東京教会)

▲李耀翰先生

兄弟を通じて父母に

 皆さんは、なるべくなんでもかんでも善に取り扱うのです。善意でもって解釈し、善意でもって受け継ぐのです。そうすれば、自分も善に実るのです。嫌いだとか好きだとか、こういうことは、言ってはいけません。そういう時は、過ぎ去ったというのです。

 善に解釈し善に受ける、喜んで自分に消化するようにするのです。合わないけれども、自分のためになくてはならない人と考えるのが、信仰路程でしょう。「この人は怨讐(おんしゅう)だ」こう言わずに、「怨讐でも自分のためだ、私に罪があるからだ」と、このように人の罪も自分の罪のごとく受けるのが、信仰路程においての責任だったでしょう。だから今になって特に、もっと私たちは主体者の立場へ立って復活しなくてはならないというか、実らなくてはなりません。

 主体者の立場に立たないと実らない時なのです。主体者の立場に立つ方法は、親の心をもって、僕(しもべ)の生活をしなさいと教えられましたが、これは生活の中に入ってどうしなさいという意味かというと、主体者の立場に立つということです。

 主体者の立場とは何かというと、神の立場です。神の立場とは何かというと、アベルはカインが神の立場であるし、カインはアベルが神の立場です。だから相対者の事情に飛び込めば、主体者の立場に立ちます。公的・私的というのは、お互いの関係で自分を否定して、相手の立場に立つことが公的ということです。

 「公的、公的」といつも言うでしょう。公的というのはお互いの関係で見れば、自分の立場に立って人に要求するよりも、自分の立場を離れて相手の立場へ飛び込むことです。飛び込むとは、その情に同感し、その人の事情を私の事情のごとく受け持つことです。その人の悲しみを自分も悲しんでみる、これが公的な情、それが親の立場、あるいは神の立場でしょう。

 神の立場というのは、教会長の立場とか、これではないのです。今までは神の立場は本性であり、自分の立場は堕落性である、こう学んだでしょう。

 しかし、神の立場はどこだということを、具体的にはほとんど知らずに暮らしてきました。なぜかというと、神の立場は、教会の命令の立場だと、こう思っているでしょう。もちろん、方向はそうなのです。しかし、具体的に生活圏内において、例えば夫婦なら、お互いが神の立場です。その夫婦は離れていては神の立場ではありません。そうでしょう。

 カイン・アベルなら、お互いが神の立場です。お互いにカイン・アベルなしに、父母に向かっていく道がないのです。カイン・アベルを通過せずには、父母を尋ねていく道がないでしょう。だから、カイン・アベルは、お互いが神の立場です。アベルの神様はカインであり、カインの神様はアベルです。

 これを通じないと、父母の立場で、子女の位置へ到達できないでしょう。私たちは「原理」で、ただアベルを通じるという「原理」は学びましたが、カインを通じなくてはならないという「原理」は教えられませんでした。蕩減(とうげん)路程においては、そういうふうに教えるとこんがらかるから、今になって分かったのです。

 以前は、そういうことを教えると危なかったのです。それぞれみな、サタン圏内を聖別できないでしょう。しかし、今になって悟ってみると、アベルとしての神の立場は神様でなく、アベルもカインの立場を通過しなくてはならないのです。

 だから、イエス様御自身も、イスラエル民族を、神様に侍るごとく愛したのです。だから私たちも生活する圏内で、神の立場を探さないと行く道がありません。

 お互いの関係をほっておいて、行く道はないでしょう。祝福を受けたのに、夫婦を通じないで行く道がないのと同じです。祝福を受けた夫婦は、それを通じないと行く道がないでしょう。それと同じく、生活圏内の兄弟を通じずに行く道があるかというのです。ないのです。だから神の立場ということを、今まではただ方向だけ分かっていたけれども、自分の通らなくてはならないその門がだれかというと、イエス様だけではありません。

 私たちの生活圏で、門を通ずるのです。聖書にも門を通ずるという話があるでしょう。イエス様は門であるとあります。韓国語では、ムンと言うのです。ムン、ムンを通れ、ムンを通過しなさいと。イエス様は、自分をムンと言ったのです。我はムンである、羊はみなムンを通るのだと、そう聖書にあるでしょう。

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 次回は、「心情のアベルをもちなさい」をお届けします。


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