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共産主義の新しいカタチ 14

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

「エンゲルス後」の対立から修正主義に
独社民党と第2インター①

 「マルクスの第2ヴァイオリン」を自任したフリードリヒ・エンゲルスは1895年に没し、周到な遺言が残されました。しかしそれは一つの時代の終わりであると同時に、マルクス主義者たちの間にくすぶり続けていた矛盾が一気に突出した、まさに新たな闘争の始まりでした。それはまた「もう一つの共産主義」が顕現する契機ともなったのです。

 エンゲルスの遺言は主に、マルクスとエンゲルスの遺稿の処理でした。まずマルクスの遺稿や手紙は、末娘エリノアに返還。エンゲルスのそれは、ドイツ社会民主党(マルクス主義政党)のアウグスト・ベーベル(1840〜1913)とエドゥアルト・ベルンシュタイン(1850〜1932)に委任。一方、エンゲルスの遺言執行人は、エンゲルスの友人のサムエル・ムアとベルンシュタイン、それにルイゼ・カウツキーの3人が指名されました。

▲エドゥアルト・ベルンシュタイン

ラサール派とアイゼナハ派とが対立
 ここでドイツ社民党に触れてみましょう。もともとドイツでは、社会的地位の向上を求める労働者層が同時に普通選挙などの政治的民主主義を要求していたことから、これらの主張が「社会民主主義」と呼ばれ、それがもとで後日、「ドイツ社会民主党」と称することになったのです。

 ドイツでのマルクス=エンゲルス思想の最初の共鳴者は、フェルディナント・ラサール(1825〜1864)でした。彼は『共産党宣言』の出された1848年にマルクスの影響下に社会民主主義を奉じ、1863年に「全ドイツ労働者協会」を設立(これがドイツ社民党の最初の前身的組織となります)。1864年秋、マルクスらはロンドンで「国際労働者協会」つまり「第1インターナショナル」を創設、その直前にラサールは急死。

 ラサールはマルクスの影響で社会主義者になるも彼の考えは「革命」よりも「社会改良」を重視。労働運動を担う社会主義者らは、社会的地位の向上が何よりも重要と考え、国家が社会主義的政策を採用すれば評価しました(国家社会主義)。この考えはラサール死後も残り、国家社会主義的な「ラサール派」を形成します。

 一方、マルクスにとり「国家はあくまで支配階級の道具にすぎない」ので、国家が社会主義的政策を採用しても、それは労働者階級の懐柔策というわけです。この解釈を踏襲したのがベーベルとヴィルヘルム・リープクネヒト(1826〜1900)らで1869年、マルクス主義を奉ずる社会民主労働党を結成(アイゼナハ派)。ベルンシュタインはこのアイゼナハ派に属します。

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 このようにラサール派、アイゼナハ派の両派の考えは、相容れないものであれ、国家が労働者の言い分に耳を傾けない時代にあっては、両者は同じ「社会民主主義者」として共闘できたわけです。

 普仏戦争に勝利したプロシアを中心に1871年にドイツ帝国が成立、宰相ビスマルクがラサール派ら国家に期待感を持つ社会改良主義者を懐柔し党の分断を図り、「社会主義者鎮圧法」を成立させ、社民党はドイツ国内で表だった政治活動が困難になりました(施行=1878〜1890)。

 だから分裂・抗争している状況でなくなり、1875年に両派はドイツ中部ゴータに集まり合流。ここで「ゴータ綱領」を採択するもラサール派の影響が強いものでした。マルクスは綱領に激怒し、『ゴータ綱領批判』を執筆。かくして対立的な考えがドイツ社会民主党の底辺に流れていたのです。軌道修正されたアイゼナハ派は、マルクスの死後1891年の「エルフルト綱領」で主導権を握り、文字通り「正統マルクス主義」を打ち出すことになります。(続く)

「思想新聞」2024415日号より

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