2024.05.22 17:00
共産主義の新しいカタチ 13
現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)
「愛の思想」欠落で家庭に階級闘争をあおる
フリードリヒ・エンゲルス➁
エンゲルスの嫉妬克服論を批判した吉本隆明
一夫一婦制度とは無論、一人の男性と一人の女性というカップルが夫婦となり家族を営むシステムです。それが健全な社会通念・倫理観として存することは、そこに三角関係のような事態が生じれば、「不倫」(古い言葉で「姦通」)ということになるため明白です。
この時、「不倫」された立場では当然「嫉妬」の情念にかられるでしょう。しかしエンゲルスは、原始社会では「嫉妬は克服され」て「集団婚」が成立したというのです。
エンゲルスがいかに人間の愛や情念を軽視し、男女の関係を「性愛」「性交」といった即物的次元に還元してしまっているかが窺(うかが)えます。その稚拙さを批判・指摘しているのが、吉本隆明『共同幻想論』のうち「母制論」の記述です。
同書は、安保世代や全共闘世代に多大な影響を与えた「国家解体論」としての性格を持っています。簡単に言えば、夫婦や家族、そして国家という観念は幻想だという考え方で、マルクス主義的に言えば「上部構造」にあたるもの。それらは「幻想」つまり、脆弱(ぜいじゃく)で不安定で曖昧なものだ、というニュアンスを伴うわけです。
ここで注目すべきは、マルクスやフロイトの思想を日本的な文脈で敷衍(ふえん)することを企図した吉本氏ですら、辛辣(しんらつ)な批判を加えているという点にあります。「人間は歴史のどの時期も嫉妬の感情から解放されたことはなかった」というその記述には、生物科学的視点と異なる文学歴史的なアプローチだという点はあるにせよ、どう見てもエンゲルスの人間理解には疑問を抱かざるをえません。
しかもマクレラン著『アフター・マルクス』(新評論)の以下の記述も、いわば内側からの非常に示唆的で重要な批判です。
原始的な諸社会における無規律性交や集団婚についてのモルガンの見解、並びに、母系の結縁集団の方が、父系のそれよりも年代的に先に成立していたという彼の見解が、極めて疑わしいものであるとするならば、家族に関する部分が、エンゲルスの書物のとりわけ一番弱い部分となっているのも、何ら不思議なことではない。それより奇妙なのは、彼が、種〔人間そのもの〕の生産と生活資料の生産とを徹底的に二分する、といったやり方をしていることである。例えば彼は、一夫一婦婚に関して、それは自然的な諸条件にではなく、経済的な諸条件に基づく家族形態の、最初のものであった、という見方をしており、また例えば、〔家族形態の進化の推進力に関しては〕、野蛮社会と未開社会とにおいては自然淘汰(とうた)が働いていたのに対し、その後においては自然淘汰に代わって新しい社会的推進諸力が働き始めるようになった、として前者と後者とを対照的に処理する手法を採っている——こういったやり方は全て、経済的なものと社会的なものとの実に脱マルクス主義的な分断を措定するものであるように思われる。
「愛の思想」に欠けるマルクス・フロイト主義
階級社会で成立した一夫一婦制の「ブルジョア的結婚」は、社会主義革命でどうなるのか。エンゲルスは「[一夫一婦制は]消滅するどころか、かえって初めて完全に実現され」、それは「相互の愛以外にどんな動機も残らない」婚姻、つまり愛のみに基づく婚姻としました。
また日本共産党も1946年の「日本人民共和国憲法草案」で「婚姻は両性の合意によってのみ成立し、かつ男女が平等の権利をもつ完全な一夫一婦制を基本とし、純潔な家族生活の建設を目的とする」とします。共産主義の提示する本来の結婚観は、真に夫婦の愛に基づいた家庭、純潔なる家庭の建設をめざすものというのです。
しかし、果たしてそんな理想がマルクス主義では実現しません。「富が溢れ自由な階級なき社会」をめざした社会主義革命が「富の枯渇し、自由が抑圧された新しい階級社会」を生みだしたのが現実でした。結婚と家族観においても、その理想と逆の結果をもたらし、ソ連社会が米社会と同様フリーセックスの蔓延(まんえん)と家庭崩壊が社会現象になりました。かつて1970年代の「連合赤軍事件」で、「出産・育児は反革命」と烙印(らくいん)を押され、女性兵士が処刑されたのが現実なのです。
エンゲルスの主張も日本共産党「草案」も、根のない木であり、画餅(がべい)にすぎません。原始共産主義社会は無規律性交のフリーセックス社会だったとの立場、そして一夫一婦制が経済的な搾取体制として成立したという立場からは、真実の愛による一夫一婦制度が成立するはずがありません。
エンゲルスは、フォイエルバッハが唯物論の立場から人間愛を説いたことに対し、「彼は下半身は唯物論者で上半身は観念論者であった」と批判しましたが、同じことがエンゲルスにも言えるのです。すなわち「エンゲルスは下半身ではフリーセックス論者であるが、上半身では一夫一婦制論者である」と。
故李相軒(イ・サンホン)統一思想研究院院長は「人間の始元が無規律性交の社会であるとするならば、原始共産主義社会の高次な形態であるという共産主義社会はより洗練されたフリーセックス社会になるというのが、必然的な結論ではないか。唯物弁証法の『否定の否定の法則』によれば、古い最初の段階(原始共産主義社会)が否定されて、新しい第二の段階(階級社会)になり、それがさらに否定されて第三の段階(共産主義社会)になるが、その時、第三の段階は、高次元的に、最初の段階に復帰するからである。性解放論者たちが、モーガン=エンゲルスの主張を受け容れながら性の解放を叫んでいるが、その結論はともあれ、彼らは理論的に首尾一貫しているのである。真の夫婦愛に基づいた一夫一婦制の家庭をめざすのであれば、それにふさわしい愛の思想が提示されなくてはならない」と『頭翼思想時代の到来』で述べるように、マルクス主義はもとよりフロイト主義・ダーウィニズムも同じく決定的に欠落しているのが、「愛の思想」にほかなりません。
★「思想新聞」2024年4月1日号より★
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