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宣教師ザビエルの夢 37

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第三章 キリスト教公認への道のり

三、修道生活——白き殉教の道

●修道生活の始まり
 以前私は、修道院の中で観想の生活に生涯をささげた修道女たちと、祈りを共にしたことがありました。それは、伝統的なキリスト教の生活を支える、生命の鼓動のようでした。母の懐に抱かれて聞く、あの懐かしき心音のごとく、ドクッドクッと全身に血潮を送り込んでいるような響きです。修道女たちは直接外界と接触することがなくとも、毎日毎時、世界の出来事に配慮し、人類の救霊と信仰の友らの隣人愛の実践を支えるべく祈り続けているのです。それは密(ひそ)やかな隠れた生活ではありますが、教会全体に栄養を送り続けるライフラインのようなものです。聖堂に響きわたる祈りの唱和に、確かにキリストの体を生かし続ける生命の鼓動がこだましていたのです。

 教父たちの活躍していた古代に芽生えた修道生活は、地下を流れる水脈のようなものです。新たな時代の要請にこたえて絶えず変貌(へんぼう)を遂げつつ、キリスト教会の生命を根底で支えてきました。ただ神のみを探し求め、イエス・キリストの模範に倣って、キリスト者の完全を目指して営まれるようになった修道生活は、3世紀ごろに始まったといわれます。砂漠に退く生活は、孤独、禁欲、黙想の三語に集約されます。

 キリスト教の信仰の完全なる証(あかし)は、それまでは「殉教」でした。自らの血の一滴までもささげ尽くしてキリストを証しすることが、信仰者としての最高の生き方とされました。しかし、迫害がやむとともに殉教は意味を失い、教会の平和は信仰の弛緩を生みました。そこで理想を求める人々は、この世の一切を放棄して砂漠に身を投じ、あえて迫害状況に己を置いたのです。人は彼らのことを隠遁(いんとん)修士と呼びました。

 かのアレキサンドリアの巨人・オリゲネスは、修道生活の理念を与えました。砂漠での禁欲生活は、神のためにささげる五感の殉教であり「精神的殉教」であるというのです。彼の理念を受け継いだ修道者たちは、かつての「赤き殉教」「血の洗礼」に対して、禁欲生活を「白き殉教」と呼ぶことにより、修道生活の意味を深めつつ地上の生活を聖化させてきました。

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 次回は、「修道制の発展」をお届けします。


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