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シリーズ・「宗教」を読み解く 308
修道院の祈り⑥
神に選ばれた民

ナビゲーター:石丸 志信

 キリスト教は、イスラエル民族の神への賛美を束ねた詩篇を自らの祈りとして相続した。
 それによって、キリスト教が新しいイスラエル、神に選ばれた民であるとの意識が培われていくことになる。

 詩篇には、イスラエルの体験をもとに王の戴冠式を祝賀する歌がある。
 イスラエルの国の復興と、ダビデのような王が再び来ることへの待望が込められた歌であり、創造主なる神がイスラエルに臨在され、大いなる権能を持って統治される日に思いをはせる歌でもある。

 その日その時がいつ来るのかは分からなくても、その日が来ることだけは間違いなく、いかなる困難な状況にあっても民族の希望となっていった。

 キリスト教徒にとっては、主の到来は再臨主の到来であり、終わりの時に再び来られる主を待ち望む祈りとなっていく。

 一方、賛美というけれども、手放しに喜び感謝を表す歌ではないところが詩篇の味わい深いところである。
 迫害や試練の最中で嘆く個人の歌があれば、敵国に蹂躙(じゅうりん)され、信仰の自由を侵害され、虐げられた民族の嘆きを歌うものもある。

 悲痛な叫びを上げているのにどうして賛美といえるのだろうかと不思議に思うが、祈り続けてみるとそれが分かる。

 イスラエルの民の嘆きは、解決することのできない人に対して訴えるものではない。
 彼らは、ただ唯一の神、全ての創り主なるかたにのみ向かい合って、胸が引き裂かれ、はらわたがちぎれるほどのうめきを上げても恥じることはない。

 それほど切実な叫びは、必ず天に届くことを知っているかのようだ。祈りが進むにつれて、重々しい空気が晴れて、喜びと感謝にいざなわれていく。

 修道院の伝統に取り入れられ、キリスト教の文化の中で歌い継がれた嘆きの詩篇は、祈る人にイエス・キリストの受難、死、復活の出来事を想起させる。

 無知の故に尊いひとりごを裏切り、十字架の道へと追いやったことに対して痛悔の心で、涙ながらに悔い改めていくと、やがて赦(ゆる)されたことを実感し、立ち上がり、復活された主に感謝の言葉があふれてくる。

 こうした賛美をささげ続けることで、キリスト教は、新しいイスラエル民族としての体験を継承していくことができるようになったのだろう。



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