2024.02.18 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(145)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十、約束と誓い
許しの心情
そういうことを考えるときに、私たちは、こういうかわいそうな神に対して、主に対して、どういう心構えで行かなければならないのでしょうか。侍る例をとってお話しすることによって、この話を終わらせたいと思います。
同じ立場に立たなければ、許すということは成り立たないのです。人が私を殴ったりして私を痛めつけたとすると、殴ったその人を許すためには、私が痛めつけられたそれに価する痛みを払ったときに許されるのです。子が親を悩ませたとき、親が子供を許すには、子供が親の言葉を聞くのがつらいという心情を抑えて、親の言葉を聞き入れたならば、親はその子供を許してあげるのです。
神もそうです。約束をした人間が、その約束を破って神を捨てました。捨てられた神は、捨てた人間を許すために、どういう立場に立たなければならないのでしょうか。
人がみ旨を捨て、神を捨てたのですから、今度は神が人間を捨てた立場に立てば、同じ立場になるのです。
人間の代表として現れたメシヤを、そのような立場に立たせることによって、人間を赦(ゆる)すようにされたのです。メシヤは、罪を背負った人ではないのです。ですからメシヤに罪はないのですけれども、罪を全部担ったのですから、罪人ではないのですが、罪人であるというのです。
皆さんは、自分の部下が誤ったら自分が責任を取ります。その部下が守れなかった責任を自分が担うという場合には、自分は責任を果たしているにもかかわらず、自分をして自分が誤ったという立場に立てて、その責任を取るという立場に立つのです。
ですから、その人の罪を負っても耐えられなければ、人の罪を担うことはできないのです。人はよく自分の部下が罪を犯した場合、代わって責任をもちますと言います。責任をもちますと言う場合、その代わりに処刑されたとしても、生き残るような気持ちがある者でなければできないのです。
人の罪を担うというのは、ただ言葉だけではできないのです。その人間の罪というのは、神をだまし、神を捨てたことなのですから。神の愛を捨てた人間の罪の身代わりとして罪を担ったメシヤですから、そのメシヤは、神を捨てたメシヤの立場なのです。罪を負うたのだから、神を捨てた立場に立ったのです。そのメシヤが神から許されるということは、すなわち全人類が神から許されるということなのです。
神は全人類を許さんがために、メシヤに対してどういう立場に立たなければならないのですか。神は人間を捨てた立場に立たなければならないので、メシヤを捨てたのです。なぜですか。赦さんがためです。そして愛さんがためです。神はどういう心情で捨てられるのですか。神の心情の中にいる時に捨てられるのではなく、神か人か、愛か愛でないのか、そういう分別できない限界で捨てられるのです。
皆さんの心が高まっている時には、耐えられます。神は、どのような時に、神のために尽くすという立場に私たちを追い出すかというと、私たちの心が高まっていない時なのです。「これが神のみ旨かな。これが本当に神のみ旨なのか」という限界に立っている時に捨てるのです。また、そうした中にあって、神は救うというのです。そういう中にあって、「神のために私は行きます」と言うことができますか。
もう一つの例があります。メシヤは、「私の思うようにするのではなくして、神のみ意(こころ)のままにしてください」というお祈りをします。メシヤに自分自身の思いがあるはずがないのです。メシヤ自身の考えがあるはずがないのです。寝ても覚めても、疲れていても、一瞬たりとも神から離れられない心情なので、メシヤ自身の考えというものはないのです。
皆さんも、「自分のためにするのは私的。私は神のために、公のために、み旨のために食べている。み旨をなすために食べているのだから、公的であって、私的ではない」と答えます。私的と公的というのは、肉体と心との限界と同じ意味なのです。どこまでが肉体か、どこまでが心か、限界がないのと同じです。私的と公的というのは、そういう話なのです。肉と霊の関係なのです。私的とは自分のためにするのであり、公的とは公のためにすることというのは分かります。しかし私たちの場合、自分のためにというのは何のためかというのです。
私たちの場合、私のためにするといっても、公的な目的のために行うのです。自分の世界はあっても、公的な基準の一番小さい基準のものを私的というのです。私たちの私的というのは、一番小さい公的なものと言わなければなりません。許すというのは、同じ立場に立って許されるのです。神は、神から離れた人間を神に返さんがために、神の立場でありながら、人間の立場に立って歩まれたというのです。神は人間の立場に立って、人間を神の立場に立たせて侍ったというのです。
これは、自分を捨てて犠牲の道を歩いたということであり、父母の心情をもちながら僕(しもべ)となったということです。神というのは、人間に対して父母の立場なのです。父母の立場でありながら子女の立場に立ち、子女よりもっと下って僕の立場、言い換えれば、天使長という立場に立ってくださったというのです。
神がそういう立場に立ったのですから、人間はどういう立場に立たせられたのでしょうか。人間を人間の立場、あるいは神の立場に立たせたというのです。ですから、いくら感覚のない人でも、木石のような人であっても、このように対してくれれば、動かざるを得なかったというのです。神は人類に、そういう道を示してくださいました。先生の行かれる道も、その道を歩まれるのです。
神もこういうふうに歩まれたのです。あなたもこの道を歩かなければならないのです。メシヤのメシヤとしての悟りというものは、ここにあったのです。
(1972年7月9日、東京教会)
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次回は、「神を慰める者となりましょう」をお届けします。