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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(144)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十、約束と誓い

▲金元弼先生

自分を伝道する

 人が変わると、心が移ります。神の啓示は、心になされます。そして、心になされた啓示というのは、体に結びつけなければならないのです。その時、体と心と一致するのに時間がかかります。私たちが普通に言う「み言(ことば)の受肉」ということです。み言を聞いて、そして体と一つになるのです。その期間が、受肉する期間であるのです。

 洗礼ヨハネは、神の啓示しか証さなかったのです。ところが、証は心に対して証されたのです。証された者は、次には自分自身に証さなければならないのです。

 約束をする場合は、いつも心と体が一つになって約束するのですが、いつも心と体は一致していないのです。それで、一つの自分に証された場合は、もう一つの自分に対して証さなければならないのです。ところが私たちは、それに気づかないのです。み言を聞けば、心が高まります。熱くなります。ところがその心は、ある期間がたてば冷えていきます。自分が、もう一人の自分に証さなかったからです。

 サタンが活動する舞台となっている肉身に対して証さなければいけないのです。自分に証すとは、自分が自分を伝道するということなのです。これは、言わば修身です。身を修めるということです。自分で自分を伝道するということなのです。

 霊能者たちが自分で自分に証さなければならなかった期間は、借りものです。自分のものになっていなかったのでした。自分のものにせずして、証したのです。いろいろなことを証したけれども、結局、ついて来られなかったのです。霊能者でない人たちもまた、み言を聞いたのちに、自分に対して証さなければならないのです。

 啓示するのは神であったり、「統一原理」自体、あるいは実体の人間であったり、そういう相違はあるかもしれませんが、自分自体に証すという根底的な問題に対しては、変わりがないのです。自分に対して啓示することには変わりがないというのです。

 先生は牢屋の中にいても、そういう人たちが誓いながらも去っていくことを、よく知っていらっしゃいました。それでも一日に3回、そういう人たちのために、お祈りされたのです。長い28カ月という生活が終わり、帰られてからも、この人たちのためのお祈りはやめられませんでした。そして、先生は直接、その人たちにお会いになりました。あるいは、人を訪ねさせてお会いしました。しかし、その人たちは、ついてきませんでした。

 先生は、「私と一緒に因縁をもつ者は、非常に幸せな者である」と言われます。先生と一緒にみ旨を歩んでも、嫌になれば出ていくことができます。また、ついていきたければ、ついていくことができます。自由目在にできるというのです。しかし先生は、自由自在にはできないのです。先生のおっしゃることを聞かなくとも、先生はその人を見守っていらっしゃるのですから、その人は幸いであるというのです。

 先生は、こう話されました。「皆さんを中心としては、一歩も進むことができない。しかし皆さんは、こういう基準になれるだろうと考えて、今の皆さんではなく、10年後の皆さんを希望として摂理をする」。そうでなければ、一歩も進むことができないというのです。失敗しながらも6000年後、あるいは1万年後においては、このようになれるという、そういう希望をもちながら、その理想を望みながら、現在の痛みを忘れてくださるというのです。

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 次回は、「許しの心情」をお届けします。


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