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宣教師ザビエルの夢 24

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第二章 キリストと出会った人々

三、40年目の出来事

エルサレム陥落
 イエスの十字架の死と復活の出来事が紀元30年ころだとすれば、それからちょうど40年目の紀元70年に、エルサレムの陥落という出来事が起こりました。この時、ローマの将軍で後の皇帝ティトゥスが、軍隊を率いてエルサレムを侵攻しました。ユダヤ人たちは抵抗を試みましたが、戦いに敗れ、彼らの宗教的・精神的支柱であった神殿は崩壊し、イスラエル国家は地上から姿を消します。この日から、ユダヤ民族は再び流浪の民となり、さまよえるアラム人となってしまったのです。

 実はエルサレム陥落の出来事は、ユダヤ教とキリスト教の断絶が決定的になった事件だったといえるものです。神殿を失い、国家を失ったユダヤの宗教指導者、ラビたちは、その後の民族の精神的支柱をトーラー(律法)におき、その研究の中心地をヤムニヤという町に移しました。世界各地の会堂(シナゴーグ)は、学びの拠点となり、国を失ってもなお独自の伝統を保ちつつ、生き延びていく道を選んだのです。

 一方、イエスを救い主として受け入れ宣言する者の群れは、パウロらによって推し進められた異邦人伝道を、より積極的に展開することで、ユダヤ教の伝統を断ち切りつつ、世界化の道を雄々しく歩み始めました。40年目のこの時、共通の中心地エルサレムを失うことによって、両者は別々の中心を持つようになったのです。それで、ユダヤ教とキリスト教と呼ばれる、別々の伝統や歴史が生まれることになり、両者の溝は埋め難いものとなりました。

 国を失ったユダヤ人にとっては、再び苦難の歴史が始まることになりますが、イエス・キリストの救いを得たキリスト教徒にとってもそれは、ローマ帝国における迫害と殉教の歴史の始まりなのです。キリスト教徒たちの信仰を鼓舞してきた輝かしい殉教の記録が、これ以後に数多く記録されていきます。信仰者たちの勇敢な死は、鮮烈な愛の証として称(たた)えられるべきものですが、見方を変えれば実に悲惨な歴史ではなかったかと思うのです。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」(『新約聖書』ルカ福音書2328)とイエスが言われたのは、なにもユダヤ教徒だけのことを言ったのではないように感じられて仕方がないのです。

 イエスをメシアとして受け入れなかったユダヤ教徒の苦難を知りつつ、それらを抱き切れなかったキリスト者たちでした。いやむしろ、彼らがユダヤ教徒らを切り捨てていったがためにたどらざるをえなかった血の道だったのでは、と私は思うのです。メシアを迎えるべく選ばれ、全人類に先駆けて苦労の道をたどり、預言を通して準備されてきたイスラエル民族に代わって立てられたのが、新しいイスラエルとしてのキリスト教会でした。そのような自覚を持つキリスト教徒たちも、イエス・キリストの名のゆえに迫害され、苦難の道を歩むようになったわけです。

 神がかつて選ばれた民と新たに選ばれた民は、反目しながらも共に神のため苦難の道を歩んだのです。その歴史の一切を見つめて来られたのは、他ならぬイエス・キリストであり、父なる神でした。ここで神に想いを馳せるとき、愛する者たちが犠牲の道を歩む姿を忍ばざるをえない父なる神の心情は、どのようなものだろうかと思うのです。

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 次回は、「哀悼の祈り」をお届けします。


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