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宣教師ザビエルの夢 21

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第二章 キリストと出会った人々

二、聖霊の降臨

●キリスト教会の誕生
 キリスト教会の起源は、イエスの公生涯(◆注11)にあるといえるのですが、その弟子たちがキリストの到来を告げ知らせる新しい群れとして誕生してくるのは、イエス・キリストの死と復活を経た後の出来事です。キリスト教会では、ペンテコステ(五旬祭)を創立記念日として祝います。この日、弟子たちが一堂に会して祈っていると、炎のようなものが一人ひとりの上にとどまり、いろいろな言葉で話し始めるという、聖霊降臨を体験します。彼ら聖霊に満たされた弟子たちは、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」(『新約聖書』使徒言行録232)と宣言し、これをもって全世界への宣教を開始したのです。

 この日よりイエス・キリストの弟子たちは、新しく生まれ変わったといえるのですが、だからといって直ちに従来のユダヤ教とは別の新しい宗教団体が生まれたというわけではありませんでした。生まれたばかりの「キリスト教会」は、思想的にも生活習慣においても、まだしっかりと「ユダヤ教」の伝統の中にありました。

●正典の形成
 キリスト教の歴史を探究するとき、ユダヤ教の伝統を脱して新しいものとなり飛躍してきたという側面と、旧約時代と新約時代の連続性を保とうとしてきた側面と、相反する二つの側面が葛藤をしながら存続している、という点に注目する必要があります。

 聖書を例にとってみましょう。新約聖書の中で使徒たちが「聖書」と呼んでいるものは、今日ではいわゆる「旧約聖書」のことです。当時彼らは、ユダヤ人と同じ「聖書」しか持っていなかったことになります。その後キリスト教会では、イエス・キリストの受難、死、復活の出来事を記した書物や諸教会に宛(あ)てた書簡などが聖なる書物として取り扱われるようになり、これが整えられて「新約聖書」と呼ばれたことで、これまでの聖書が「旧約聖書」と呼ばれるようになりました。こうしてキリスト教会は、「旧約聖書」と「新約聖書」を自分たちの聖書としたのです。

 とはいえ、新約聖書が現在みるように27巻ひとまとまりにして正典(カノン)とされたのは、実に4世紀末のことです。この正典形成に一つの大きなきっかけを与え、しかも最初に正典目録をつくったと見られる人物にマルキオンという人がいます。2世紀の初頭にローマ教会において影響力のあった人物と伝えられていますが、正典形成に貢献したというのは、実は反面教師としてのことです。

 マルキオンは次のように考えました。旧約聖書の創造主である神は「裁きの神」であって悪なる神であり、新約の神は「あがないの神」「愛の神」であって、善なる神である、と。彼はこのような考えに基づき、旧約聖書を捨て、新約聖書の正典は、「ルカ福音書」と「使徒言行録」、およびパウロ書簡のうち10編だけである、としました。

 彼の神に対する二元論的な考え方は、異端的なグノーシス主義と見られました。また彼の考え方の中には、ユダヤ教やユダヤ人の聖書に示された神に対する憎しみがあるのではないかともいわれます。これは、極端なパウロ主義、反ユダヤ主義です。

 キリスト教会の主流となる人々は、マルキオンの主張を排斥しました。そして、教義と生活とに対してどれが規準となる経典であるかに、一層注意を払うようになっていったのです。結果的にマルキオンの言動は、キリスト教会が「新約聖書」の正典を決定するきっかけとなったというわけです。


◆注11:公生涯/イエスが公に伝道活動した期間。

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 次回は、「ユダヤ・キリスト教の伝統」をお届けします。


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