2023.12.18 22:00
宣教師ザビエルの夢 20
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)
白石喜宣・著
第二章 キリストと出会った人々
一、ユダヤ・キリスト教の歴史感覚
●キリスト教史をたずねて
もし仮に、ユダヤ・キリスト教の伝統を相続しようと願っている人がいるならば、ユダヤ教の4000年、キリスト教の2000年をわが父祖の歴史とし、私の記憶の中に刻んでいくことになるでしょうか。神と民の織り成す救済の歴史を私の記憶とするという歴史感覚を身につけるために、どのような姿勢が必要なのか、私もいろいろと探ってみました。
ドイツの前大統領ヴァイツゼッカーは、歴史学の課題を述べるにあたり、こんなことを言っています。
「歴史的な出来事に対する責任は、歴史を自分の歴史として自分に引き受けることを意味します」(加藤常昭訳、『良心は立ち上がる』日本基督教団出版局、1995年)
これは、まさにユダヤ・キリスト教の伝統を生きようとする者たちの姿勢ではないかと思うわけです。また、アルベルト・シュヴァイツァーもその著書『イエス伝研究史』の序言で、次のように言っています。
「わたしの願うところは、われわれがふみ台にしている人々の業績を現代の人々に示す上で成功すること、(中略)また、過去の偉大な精神によってわれわれが意気消沈せしめられるのを感じて謙虚になることにある」(遠藤彰・森田雄三郎訳、『イエス伝研究史』白水社、1960年)
ユダヤ・キリスト教の歴史に分け入るとき、彼らの信じる「神様」の呼びかけに応え、託された使命を果たそうとささげてきた先人たちの生きざまにも、多くの功績とともに未完の悔しさや挫折(ざせつ)の悲しみが流れているのを知ることができます。彼らの営みの正否を、現在の価値観や世界観から断じる前に、共感に努めたいと思います。そのためには、先人の喜びも悲しみもともに受け止め、私の歴史として引き受けることが必要です。今日世界に広がる敵意や憎悪、分裂の種を過去に見いだす時、それは、私たちが解決しなければならない課題を突きつけられているようなものです。その悲しみを知る者に歴史は、過去の先人たちの営みを現在に拾い上げ、尊敬と感謝とゆるしをもって昇華させ、さらなる理想を目指して未来を築く、そのような決意を促すものとなりました。
ですから、ユダヤ・キリスト教の歴史感覚は、『クリスマス・カロル』に登場するスクルージのごとく、「私は過去と現在と未来の中に生きよう」と決心して、新たな人生を再出発するところにたち現れてくるものではないかと思えるのです。(ディケンズ著、村岡花子訳、『クリスマス・カロル』新潮社、1952年)
このような歴史感覚をひもときながら、日本の切支丹(キリシタン)を突き動かした初代キリスト教会の断片をたどってみたいと思います。
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次回は、「キリスト教会の誕生/正典の形成」をお届けします。