https://www.youtube.com/watch?v=dC49n0-NQXs

シリーズ・「宗教」を読み解く 294
日本キリシタン巡礼③
会津キリシタンたちの殉教

ナビゲーター:石丸 志信

 会津藩主蒲生(がもう)秀行の跡を継いだ忠郷には嫡子がいなかった。弟の忠知が後嗣(こうし/跡継ぎ)となり、蒲生家は伊予松山藩に転封となった。

 代わって伊予から移ってきた加藤嘉明が会津藩主となった。
 加藤家は、1627年から1643年まで加藤嘉明・明成の親子が二代にわたり会津藩を治めた。

▲加藤嘉明(ウィキペディアより)

 この時代は、キリシタンにとって各地でも弾圧の厳しさが増してきた期間だった。会津でも明成の時代に厳しい弾圧によって多くの殉教者を出している。

 会津若松の鶴ヶ城から越後に向かう街道が通っている。町のはずれを流れる湯川を越える橋は柳橋といわれる。道標の柳が近くに植えられていたからだ。

 この橋から下流200mの薬師川原には江戸時代の処刑場があった。
 罪人たちは処刑場に引かれていく途中、この橋のたもとでひとときの休息を取ったという。

 1635年、会津キリシタンの指導者、横沢丹波が捕らえられた。
 この時、彼の一族と横沢の屋敷にかくまわれていた外国人司祭ら合わせて60人余りのキリシタンが捕まえられた。

 彼らは、処刑場に着く前に涙橋のたもとにある休み小屋で、傍らの井戸の水をくみ、家族らと水杯を交わし別れを惜しんだといわれている。

涙橋

 彼らの処刑は1217日に始まり、丹波は逆さ十字に磔(はりつけ)にされ、20日には外国人司祭が同じく磔に処せられた。
 この司祭は、おそらくディエゴ・デ・ラ・クルス・デ・パロマレス神父であろうといわれている。彼は体力があったようで、一度では絶命せず、1226日の夕方再び磔にされ、二日後に亡くなった。

 また、あるものは火あぶりとなり、あるものは斬首された。さらに、近くの壁のない小屋に閉じ込めて風雪にさらして殺し、亡がらを一緒に埋められたキリシタンたちもいた。

 昭和32年に、地区整備のために橋の工事がなされた時に、この場所から処刑された者たちのものと思われる幾体かの遺骨が見つかった。
 昭和37年に彼らを供養するためのキリシタン塚が建立された。

キリシタン塚



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