2023.12.05 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 295
日本キリシタン巡礼④
進む幕府によるキリシタン弾圧政策
ナビゲーター:石丸 志信
加藤明成が会津藩主だった時、キリシタン弾圧が激しくなり、殉教者を出している。また、領内の統治を巡って家老・堀主水と対立して騒動となり、結果、加藤家は改易された。
代わって会津藩主となったのが、徳川二代将軍秀忠の庶子として生まれた保科正之だった。1643年(寛永20年)のことである。
時代は、幕府の意向を受けてキリシタン弾圧政策を徹底していくことが求められていた。
会津領内各所にキリシタン禁制の高札が立てられ、キリシタン取り締まりを強化していった。
ところが正之の家臣・野村甚兵衛がキリシタンであることが発覚。彼は江戸に送られたが、翌年には許されて会津に戻った。
キリシタン詮索の注進のため、幕府は五人組による監視制度を強化。バテレン(聖職者)の訴人には銀500枚、イルマン(修道士)の訴人には銀300枚、立ち返りの訴人には銀300枚、同宿や宗門人(一般信徒)の訴人には銀100枚を与える旨が、高札に書き加えられた。
また、キリシタン改易所が設けられ、キリシタンを見つけ出し、捕らえて改宗させるというキリシタン弾圧政策が進められていった。それでも保科正之のキリシタン政策は比較的緩やかであったようだ。
一人の家臣・大田実次もキリシタンであった。しばらくは見過ごしていたが、幕府の手前もあり、彼を谷野又右衛門と改名させ帰農させたという。
谷野は上荒久田の土地で青苧の栽培を始めているが、その土地が栽培には適していなかったので、間もなく別の場所に移住した。
上荒久田の谷野家の屋敷跡には、現在「天子神社」が建っている。
鳥居脇の「由来推考」書きには、蒲生(がもう)領主の時代、この場所に天主堂があったので、この地域にキリシタンが多くいたのだろうと推考できる、とある。
その後、弾圧下にあっても、会津のキリシタンたちはひそかに信仰を続ける者がいた。
【参照】
①高木一雄著『東北のキリシタン殉教地をゆく』(聖母の騎士社、2003年)
②「キリシタンと会津~祈りの光と影~」(会津若松観光ルネッサンス協議会発行パンフレット、2021年)
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