2023.11.21 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 293
日本キリシタン巡礼➁
キリシタン大名、蒲生氏郷
ナビゲーター:石丸 志信
会津には、キリシタン大名の蒲生氏郷(がもう・うじさと)がいた。
1585年、氏郷は茶人の友でもあった高山右近の勧めでイエズス会宣教師のオルガンチーノ神父から洗礼を受け霊名レオンの名を与えられた。
近江出身の氏郷は、豊臣秀吉の重臣として、紀州征伐、九州征伐、小田原征伐に参戦し功績を立てた褒賞として陸奥国会津42万石を与えられた。
1590年に会津入りした氏郷は、所領の復興に努め領民からも慕われたが、残念なことに1595年には病気のため40歳の若さで亡くなっている。
嫡子秀行が家督を相続したが、家臣団の対立を抑えることができず、宇都宮に減封された。
代わって会津領主となったのは上杉景勝だが、関ケ原の戦いの後、功労を立てた蒲生秀行が会津に戻ってくる。
氏郷の家臣にはキリシタンがたくさんいた。
氏郷と共に会津入りした関左内は、氏郷の後、会津藩主となった上杉景勝に仕官替えをした時に岡越後と改名した。
上杉景勝が会津を治めたのはわずか2年で、蒲生秀行が会津に戻ると岡越後は再度蒲生に仕官し、1609年には猪苗代城の城代となった。
彼は磐梯山の麓の見禰山(みねやま)に宣教所を建て宣教師を招いて布教に当たらせたと地元の案内にはある。おそらく城下を見下ろすように鎮座する土津(はにつ)神社辺りだと考えられる。
猪苗代城跡の東に広がる町の一角には、一本のケヤキの大木が残っており、根元の洞に社が据えられている。
この木は福島県緑の文化財に指定されており、樹齢1000年と推定される。
ここは天司宮と呼ばれており、岡越後の建てた教会跡だと言い伝えられている。付属のセミナリオもそこに造られ、子弟の教育に当たっていたようだ。
17世紀の初頭、猪苗代湖畔の城下町に、一時キリシタンの信仰が栄えていたのだ。
しかし1622年、甥(おい)の岡左衛門により殺され、猪苗代城に近いイケ沢に葬られたともいわれている。
時は、二代将軍徳川秀忠が主導する元和の大殉教の時代になっていた。
土津神社の近くの沢を下るとキリシタン殉教の地碑が立っている。
岡越後が葬られたのがおそらくこの場所で、その後の厳しい迫害下で殺されたキリシタンたちの亡骸(なきがら)もこの場所に葬られたと、碑に記してあった。
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