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宣教師ザビエルの夢 16

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第一章 日本人とユダヤ・キリスト教

六、浦上に響く教会の鐘

●最後の迫害
 潜伏切支丹(キリシタン)によって語り継がれてきた予言のごとく、幕末に黒船に乗ってやって来た神父は、外国人居留地に教会堂を建設するとともに、日本の信徒発見の使命を託されました。横浜を経て長崎に赴いたパリ外国宣教会のプチジャン神父は、この地に26聖人にささげる記念聖堂(大浦天主堂)を建立し、遠い昔の殉教者を慰めるとともに、まだ生きているかもしれない切支丹探索の準備を整えていたのです。そして献堂式から1か月、その時は訪れました。18653月、浦上から死を覚悟してこの聖堂を訪れた十数名の農民が、神父の耳もとで、彼と同じ信仰を持つものであることを告げたのです。これが、歴史的な信徒発見の日となりました。

 苦難をなめてきた切支丹にとっても新しい時代を迎え、今こそ信仰の自由が得られる時だとの喜びが高まりました。こうして、明治維新となったのです。しかし彼らが最も悲惨な迫害を受けたのは、むしろ明治時代に入ってからだったかもしれません。「大声でキリシタンの歌をうたって歩ける」ようになるには、彼らはまだ一つ大きな山を越えなければなりませんでした。

 徳川以来の禁教令はまだ生きており、維新政府もこれを追認して撲滅に乗り出したのです。切支丹であると公言する者は捕らえられました。彼らは処刑は免れたものの、政府の方針で全国の諸藩に流刑となったのです。中でも長崎の浦上は、村人総勢約三千数百人がこぞって流されました。彼らはこの流刑を「旅」と呼び、異郷の地で苦難の生活を強いられることになったのです。(片岡弥吉著、『長崎のキリシタン』聖母の騎士社、1989年)それはあたかも、バビロンのほとりで故郷を偲(しの)んで涙したユダヤ人のようでした。

 切支丹たちは流刑地でも徹底して改宗を迫られました。彼らの体験談が後にまとめられていますが、その一部を見ても、役人の改宗を迫るやり方は、数百年前のものと全く変わっていないのに驚かされます。長年つちかわれた切支丹に対する憎悪感は拭(ぬぐ)い難く、改宗を迫ることは法的に正当化され、役人による執拗(しつよう)な拷問が加えられたところもありました。そのため維新政府の草創期に数百人のキリスト教の殉教者が生まれているのです。

 最後にして最大の迫害が終結したのは、外圧によるところが大きいのです。彼らがただ切支丹であるという理由で罪に定められるならば、それは日本の残酷さをあらわにした行為だ、とのイギリス公使の非難がありました。時に不平等条約改正の根回しを兼ね、西欧視察に出た岩倉具視一行は、信仰を弾圧し、流刑や改宗のための拷問が行われている国を近代国家と認め難いという諸外国の姿勢を見せつけられ、やむなく本国に弾圧の停止を要請せざるを得なかったのです。明治6年、ようやく徳川以来の禁令が解かれました。「旅人」たちは多くの犠牲を払いましたが、再び故郷に帰って自由に祈りを唱えることができるという希望を胸に、帰路についたのです。

 神殿再建の詔勅を携えて、国の復興を目指したユダヤ人のように、切支丹たちは流刑の地から、懐かしき故郷の土を再び踏みしめました。しかしそこに待ち受けていたものは、一層の困難にほかなりません。荒れ果てた土地、他人に奪われた家、疫病の蔓延と、一切の希望が失われるかのごとく悲惨な故郷であったのです。(前掲書)

▲乙女峠のマリア聖堂(津和野市)

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 次回は、「隣人愛の実践」をお届けします。


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