2023.10.30 22:00
宣教師ザビエルの夢 13
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)
白石喜宣・著
第一章 日本人とユダヤ・キリスト教
五、切支丹禁制下の信仰
●ユダヤ・キリスト教と日本の切支丹
ユダヤ・キリスト教の伝統に立つ選民(◆注9)とはいかなる者なのかということを探り求めてみると、「思い起こす民」という言葉に行き当たりました。ヘブライ語の「ザハール」(思い起こせ!)という言葉は、聖書の中に169回出てくるといいます。民の心に刻まれた父祖の歴史を思い起こせと、神が命じるのです。イスラエルの民が神に出会ったときや、背いたときのことを思い起こせば、今ここで、イスラエルの全歴史は「私」の歴史になるというのです。ですから、選民の信仰告白は、「凝縮された歴史」といえるものです。「主は私たちをエジプトから導きだした」(ヨセフ・ハイーム・イェルシャルミ著、木村光二訳、『ユダヤ人の記憶、ユダヤ人の歴史』晶文社、1996年)。
ユダヤ人は過越(すぎこし)の祭を祝うたびに、エジプト脱出の時と同じように苦菜と種なしパンを食べ、神が民を解放したその夜を想起するのです。この民は、2000年前に祖国を失ってからも、なお地上に生き続けました。彼らが生き延びることができたのは、民の心に刻まれた、神と民族の織り成す記憶に支えられていたからです。そして、その記憶を継承することを可能にしたのは、彼らが聖書と会堂(シナゴーグ)を持つようになったためでした。聖書はその中に民の記憶をとどめ、日々の学びは人々にそれを想起させ、未来の希望をはぐくむ祈りへと駆りたてました。さらに会堂は、日常生活の中で神殿の供え物に代わる民の真心、すなわち「砕かれた心(◆注10)」をささげることを可能にしました。
キリスト教徒は、これらを継承しました。ある意味でユダヤの民の記憶をわが記憶とし、イスラエルの歴史を「私」の歴史として想起してきました。そしてその延長上に、イエス・キリストとその弟子たちによって始められた新しい歴史の記憶をつないだのです。「新しい過越」としてのイエス・キリストの受難、死、復活の出来事を、日々思い起こすことになりました。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」と使徒信条を唱える彼らもまた、「凝縮された歴史」としての信仰告白を保ってきたのです。そして聖書と教会堂を持ち、民の記憶を想起しながらこの2000年を生き延びてきたのです。
こうした点から、選民の世界を見つめてみると、日本のキリスト者たちも「思い起こす者たち」であったと、とらえることができるのです。キリスト教が伝来してから鎖国が始まるまでがちょうど90年。親子三代が生まれ育っていく年数です。この期間、切支丹(キリシタン)たちは、ユダヤ・キリスト教の歴史と重ね合わせることのできる記憶を積み重ねていったのです。
◆注9:選民/神から選ばれ、ある使命を担っていると自覚している民。
◆注10:砕かれた心/詩編第51編から着想した言葉。神の前に悔い改め、素直に開かれた心。
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次回は、「潜伏時代」をお届けします。