https://www.kogensha.jp/

宣教師ザビエルの夢 12

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第一章 日本人とユダヤ・キリスト教

四、宣教師たちの苦悩と功績

巡察使ヴァリニャーノ
 このような状況の日本にアジアの宣教状況を視察し、監督する任務を帯びて派遣されたのが、ヴァリニャーノでした。日本での彼の業績は、松田毅一氏の前掲書(『ヴァリニャーノとキリシタン宗門』)に詳しくありますが、彼が来日してすぐさま見て取った問題は、宣教方針の対立と、宣教師と日本人との不調和でした。それが宣教にとってマイナスであると感じた彼は、議論の末、結局日本文化を尊重する宣教方針を選択しました。宣教師には日本語を学ぶ道を開き、日本人には宣教師の言葉を学ぶ機会を設けました。宣教師も一般の日本人と同じ食事をし、日本社会において宗教者として尊敬を得られる作法を身につけるよう促すものでした。

 日本人のために、神学校教育の規範を定めたのは彼でした。そこでは、西洋の基礎学問が教えられ、西洋音楽の手ほどきもなされました。宗教・芸術・学問が一体不可分であった時代、その素晴らしさを存分に伝えることで、キリスト教の本質も伝達できると考えていたのかもしれません。4人の少年を天正遣欧使節として送り出したのも彼でした。宣教の実りをローマに知らせ、同時に宣教地に対する経済援助を取りつけたいという意図があったかもしれませんが、同時にそれは、東西を一つにし得る人材を育成するための実験でもありました。この使節一行がヴァリニャーノの指示で日本に持ち帰ったものが、印刷機です。この印刷機を使い、日本で初めての活版印刷による教理書や祈祷書が出版されることになります。

 こうして見ると、ザビエルから30年目の夏(1579年)に日本に上陸した彼こそ、日本に最も大きな足跡を残した宣教師だったのかもしれません。彼は3回、延べ9年間にわたって日本宣教の責任を担う中で、いかにふさわしく西洋文化を伝達するかに心砕いていたようです。それが日本宣教の道であり、彼にとっての東西文化融合のための格闘であったようにも思えます。それはまた、西欧キリスト教の世界観を身に受けた時代の申し子による、神に栄光を帰する新しい文化創造のための開拓の苦悩であったのかもしれません。

 ヴァリニャーノは宣教師らしく、彼の持てる有形、無形のすべてを日本のために与え尽くしました。しかし、その実りはどこにいってしまったのでしょうか。ローマを見た4人の使節たちも、その生涯において、棄教、追放、病死、殉教とそれぞれの最期をとげ、いつしか歴史の彼方に忘れられていきました。閉ざされた日本国の中で指導者が失われていくにつれ、彼の努力もすべてはむなしく消えていったかのようでした。しかしそれでも、彼が出版と教育によってつくりあげた無形の伝統は、その後の潜伏切支丹(キリシタン)たちに生き残る力を与え続けたに違いないのです。

---

 次回は、「ユダヤ・キリスト教と日本の切支丹」をお届けします。


◆『宣教師ザビエルの夢』を書籍でご覧になりたいかたはコチラ