2023.10.16 22:00
宣教師ザビエルの夢 11
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)
白石喜宣・著
第一章 日本人とユダヤ・キリスト教
四、宣教師たちの苦悩と功績
●ザビエルとイエズス会
キリスト教宣教の波のただ中にいた日本の民は、激しいカルチャーショックを受けたことでしょう。しかしそうした民の中に、海を越えた切支丹(キリシタン)のような、東洋と西洋の狭間に身を置きつつもその対立を克服し、東洋と西洋の調和をかけて闘った日本人キリスト者の姿をかいま見ることができました。しかし視点を移してみると、東西文化の大きな差異にだれよりも格闘したのは、むしろ西欧キリスト教の伝統をそのまま身に帯びて日本までやってきた、宣教師たちの側だったのかもしれません。
フランシスコ・ザビエル以来、日本の宣教に中心的な役割を果たしたのは、イエズス会に属する宣教師でした。16世紀に新しく生まれ出てきた、イエスの名前を冠するこの修道会は、「ミッション」すなわち「イエス・キリストによる派遣」という基本概念を新たなものにしました。「イエス・キリストによる派遣」とは、慈善活動や説教、修道生活など広範な意味をもっています。それを彼らの活動が「世界宣教」という意味として、この言葉を人々に知らしめました。使命感に燃える、ほんの一握りの同志から出発したこの共同体は、数十年後には世界の隅々にまでその足跡を刻んでいます。「イエズス会の踏破しなかった大陸はない。彼らが学ばなかった言語はない。彼らが浸透していかなかった文化もない。あらゆる分野の学問を研究し、芸術や教育においても、他のだれにもまして成果をあげた。さらに彼らが被らなかった迫害の種類をあげることができない」と、元イエズス会士で作家のマラキ・マルチンは表現しています。
「より大いなる神の栄光のために」召された会員は、だれもが知的にも霊的にも優れ、社会的リーダーの資質を有しており、たった一人でも神の国を得るために出掛ける決意をもっていました。その宣教方法の特徴は柔軟で、後に「インカルチュレーション」(諸文化への福音の受肉)と呼ばれるものでした。しかし最初からそうであったわけではなく、東洋との直接の衝突、格闘の体験を通して、次第に練られていったものだと思います。
●宣教師たちの日本人観
日本に初めてキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルは、宣教地での出来事を記した多くの書簡を残しています。それによれば、彼が目の当たりにした日本人は、「慎み深く、また才能があり、知識欲が旺盛で、道理に従い、またそのほかさまざまな優れた資質がある」国民で、「今までに発見された国民のなかで最高」の人たちでした。また「日本は、聖なる信仰を大きく広めるためにきわめてよく整えられた国です」とも書いています。(河野純徳訳、『聖フランシスコ・ザビエル全書簡Ⅲ』平凡社、1994年)
そのため、この備えられた国民のためには、謙虚で忍耐強く、学識のある宣教師を派遣してくれるよう、ロヨラや同志たちに希望を述べています。彼が残した書簡は、西欧の人々に東洋宣教の熱情をかきたてたばかりでなく、彼の後を継いだ宣教師たちの指針ともなっていきました。
その後の宣教師たちも、宣教記録を記して、責任者のもとに送り続けています。西欧と日本を比較した覚書や、膨大な日本の歴史を書き残した人物もいました。これらは、当時の日本を知る上でも貴重な資料となっています。それは同時に、宣教師自身の姿を映す鏡ともなっています。そこから、彼らの隠された苦悩や葛藤も聞こえてくるようです。
さて、ザビエルに続く宣教師たちの間に、日本の宣教方針を巡って対立がありました。それは、異なる日本人観によるものだったようです。一つは、ザビエルが評したごとくに理性的、倫理的で、勤勉、清潔な日本人像であり、まさに神の国のために備えられた民という見方でした。いま一つは侮蔑(ぶべつ)的な日本人観でした。「日本ほど傲慢、貪欲、不安定、偽装的な国民はない」とは、三代目布教長・カブラルの見方です。前者の立場で積極的に日本文化を学び、日本語にも通じ、順応していくことによって宣教の成果をあげた人物はオガンティーノでしたが、当然ながらカブラルの力を背景とする宣教方針とは相入れなかったようです。(松田毅一著、『ヴァリニャーノとキリシタン宗門』朝文社、1992年)
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次回は、「巡察使ヴァリニャーノ」をお届けします。