2023.10.02 22:00
宣教師ザビエルの夢 9
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)
白石喜宣・著
第一章 日本人とユダヤ・キリスト教
三、海を越えた切支丹
●海賊の末裔
この時代の留学生たちの中で、ひときわ印象深い人物を紹介します。名は、ペトロ・カスイ岐部(きべ)。ロマノ岐部と波多マリアの子で、現在の大分県・国東半島の出身です。岐部氏は、かつて海賊と恐れられた豊後水軍の流れをくむ、豪族の末裔(まつえい)でした。今日、豊後水道を見下ろす海辺の里には、潮風を受けて立つペトロ岐部の像を見ることができます。
彼がこの地で生まれたのは1587年。それは、切支丹(キリシタン)大名・高山右近が秀吉の棄教の要求に対して領地を返上し、信仰のゆえに流謫(るたく/流罪)に身を投じた年、すなわち、秀吉による「伴天連(バテレン)追放令」が出された年でした。切支丹に対する世の風向きが変わり始めた時期でしたが、西国の岐部親子は信仰を深め、ペトロは13歳で有馬セミナリオに入学しました。ここで彼は、当時の切支丹としての最高の教育を受けることになるのです。キリスト教世界の公用語であるラテン語をはじめ、西欧の基礎教養を修めます。しかもそこには、かつて天正遣欧少年使節としてローマに渡った伊東マンショ、中浦ジュリアンらがおり、直接西欧の世界を観た彼らからも、薫陶を受けることができたのです。
卒業後、一修道士として布教活動に従事していましたが、1614年、彼もまた国外追放の身に甘んじることになりました。この時、高山右近はマニラに向かいましたが、ペトロ岐部はマカオに向かったのです。遠藤周作の『銃と十字架』では、同胞を見捨てていく彼の葛藤が描かれていますが、それはあくまでも迫害下の切支丹たちの指導者として帰って来るため、神父になる道を探し求めていたからだといいます。
彼は、まずマカオからインドのゴアに行きます。ゴアからは海路ペルシャ湾に入り、そこから陸路、砂漠を越えてエルサレムを目指します。おそらく日本人キリスト者として初めて聖地巡礼をなし終えた彼は、再び地中海を渡り、ついにローマへ到着しました。時に1620年のことでした。
日本人としてたった独りのローマへの旅でした。興味深いことに、砂漠を渡る時、彼はイスラムの隊商に加わって共に歩いたというのです。旅の記録は残されていませんが、日に7度メッカに向かって祈るムスリムの生活を目の当たりにしたことは、想像に難くありません。また、幼いころから慣れ親しんできた聖書の世界を肌身に感じたことでしょう。
ローマでは、何の身元保証もない東洋の一青年でしたが、ペトロ岐部は勇気を奮ってイエズス会の門をたたきました。その人柄によって彼は受け入れられ、ほどなくして司祭叙階(◆注8)にこぎ着けます。それが33歳の年でした。「自分の救霊および同胞のそれのために進歩したいという大きな希望をもっている」と自ら身上書に記した彼は、ここに、一つの目標を達成しました。(松永伍一著、『ペトロ岐部——追放・潜入・殉教の道』中央公論社、1984年)
しかし、今度は日本への宣教師として、切支丹禁制下の日本に潜伏する道を探ることになりました。奇しくも、イエズス会の創始者イグナチオ・ロヨラと東洋の使徒フランシスコ・ザビエルが共に聖人の列に加えられるその祝いの式典に、日本人司祭として参加する機会を与えられ、その決心を固めたようです。1622年6月、「帰国許可」を手にしてローマを出発。今度はリスボンから海路、ザビエルが通ったその道をたどりつつ、マニラまで戻ります。ローマを後にして8年、彼は貿易商人に身をやつしながら、鹿児島に上陸。それ以後、水沢で捕らえられるまで、9年間にわたり、ひそかに信徒を励まし続けてきたのです。
ペトロ岐部は、「穴吊し」の拷問と執拗(しつよう)な棄教の勧めにも屈せず、最後には処刑されました。二代目の切支丹として生まれた彼の人生は、殉教によって完結しました。「初代教会で証明されたことが、殉教者たちの流した血潮によって日本にも起きる望みにかけており、キリストを知る人が多くならんことを切に願っております」(前掲書)
リスボンを発つとき長上の神父に宛(あ)てた手紙にそう記した彼は、ここにその証(あかし)を立てたのです。
◆注8:司祭叙階/司教の按手によって司祭の身分にあげられること。
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次回は、「ペトロ岐部の人生と日本の命運」をお届けします。