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祝福の絶対価値と神氏族的メシヤの責任完遂 109
頭だけで講義してはいけない

 今日も「一日の出発のみ言」をお届けします。
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(光言社・刊『祝福の絶対価値と神氏族的メシヤの責任完遂』より)

第三章 神氏族的メシヤの責任完遂

第二節 『原理講論』を中心とした伝道

(一)原理講義の在り方⑧

 神様が天地を創造するとき、原理を中心として神様が心情の主体となり、原理と一つになって対象をつくったのではないですか。ですから、私自身に余裕がなければなりません。講義をするとき、原理全体の骨子を考えることだけに全神経を注ぎ、頭だけで講義をしてはいけないのです。自分の心に神様をお迎えし、神様が臨在して自分と一つになれる心の余裕が底辺になければなりません。それがなければ、どのようにして神様が活動するのですか。

 ですから、講義をするときは、必ず原理全体の骨子をすべて知っている立場で心の余裕をもち、「神様は何を願われるのだろうか。このようなみ言(ことば)を中心として見てみるとき、神様がどれほど苦労されただろうか」ということを感じて、心情が誘発されるように神様の相対の立場に立ち、心で神様とやり取りできる相対的基準をつくらなければなりません。

 それだけでなく、神様と一つになると同時に、神様のみ言と主体的な神様の能力と私とが一つになることによって、相手が再創造されることを感じなければならないのです。必ず新たにつくり直さなければなりません。つくり直すのは原理がするのですか。神様がつくり直してくださるのです。皆さんが神様のみ前に心情的な相対になれば、神様の力がそこに共にあり、相対を動かすことができるのです。原理がそのようになっています。主体と対象が授受作用をすれば、繁殖が起きるのではないですか。そのようにすれば感動を受けるようになるのです。これが正しい原理講義の在り方です。(68971973.7.23

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 明日は、「神に祈りながら講義する」をお届けします。