勝共思想入門 45

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 同書は、40日研修教材シリーズの一つとして、1990年に発行されました。(一部、編集部が加筆・修正)

光言社・刊

第十二章 マルクスの根本矛盾とその克服 -総括として-

一 何が問題なのか

(一)マルクスの主張
 マルクスの主張は人間の疎外を克服するためにどうするか、ということに尽きます。そのための唯物論の立場であり、弁証法であり、唯物史観であり、資本論なのです。

 従来のマルクス主義者は、人間疎外の克服というヒューマニズム的な考え方は、初期マルクス、青年マルクス時代の考え方なのであって、後期マルクスの立場は、それを越えているというのです。このような主張は主にロシアの共産主義者たちのものでした。

 彼らは若きマルクスが使った「類」、「人間の本性」、「疎外」、「人間の能動性」という表現は観念論につながるものとして恐れたのです。ヘーゲル哲学の影響がまだ抜け切れていない未熟な段階であるというのです。従来のマルクス主義者がこの点について強調するのは、それなりの理由があるのです。この点はあとに説明することにします。

 マルクスが注目し生涯をかけて追いかけたテーマは、人間の疎外を克服することであったことは間違いありません。では、疎外とは何でしょう。本質問題であるだけに再確認しておきたいのです。

 人間の疎外とは「人間らしさ」が失われている状態というのです。この疎外されているという実感は、すべての人の共通の意識であるといっていいでしょう。朝の目覚めの時や、通勤電車の中、また友達と遊んでいる時でさえ、ふと、いったい自分は本当に人間らしい生き方をしているんだろうかと考える時があるでしょう。本当に人間らしい生き方は、別の世界にあるのではないだろうかと考えるのです。本来あるべき自己から離れたところの自分、その生活という実感なのです。これを「疎外感」というのです。

 現代哲学の特徴は、この疎外意識から出発しているとよくいわれます。疎外の意識が現代人の意識の特徴であるというわけです。疎外という言葉を哲学的言葉として用いた人はヘーゲルです。そして、そのヘーゲルの影響力は絶大なものがあり、これが、とりわけ人間の意識状態を説明するのにぴったりする言葉であったので広く用いられるようになりました。

 疎外は現代人の意識の特徴というよりずっと以前からあったのであり、人々はその克服を求めていたのです。それは幸福になりたいという意識と同質のものといえるはずです。もっと充実した生き方がしたい、満足を得たいという気持ちは、「本来の自己」として生きたいということなのですから。

 人間の歴史は幸福を探求する歴史であったということは否定できません。それは表現を変えていうならば、人類の歴史は人間疎外の克服のための歴史であったといえるでしょう。

 このことを考えるとき、必ず問題にしなければならないのは、「人間とは何か」という根本問題です。人間性についてです。疎外という概念は、「今の人間は本来あるべきところのものではなく、また、人間は本来あるべき、あり得るところのものであるべきだ」ということを基礎としています。その本来あるべき姿とは何か、あり得るところのものとは何かということなのです。この点をどう考えるかによって疎外論がどのような展開となるかが決定されるといえます。

 マルクスの人間観、人間理解はフォイエルバッハから受け継いで、さらに発展させたものです。フォイエルバッハは、人間を自然的存在としており、人間の本質的要素として、理性、意志、心情を挙げています。自然的存在としての人間にとっては、心情、つまりフォイエルバッハの場合は感性がその中でもさらに根本であり、理性を根本とすると悲劇が生まれてくるのだというのです。

 理性とは抽象化し、定立する能力ですが、絶対化され対象化された人間の理性が神の本質として考えられるようになり、人間は束縛され人間性を失うようになってしまったというのです。「神は人間がつくったもの」というフォイエルバッハの言葉は有名です。

 マルクスの場合、人間は感性という受動的なものを中心とする自然的存在としての人間という理解にとどまらず、能動的な面を強調しています。マルクスは、肉体をもつ人間が活動するという機能を重視するのです。つまり、人間は「活動的な自然存在」としてとらえられているのです。そして、この対象への働きかけこそ人間の本質機能であり、人間を人間らしい自然存在とするものであるというのです。「感性的活動の主体」としての人間なのです。マルクスにとって人間らしさとは、生産労働にあるのです。フォイエルバッハの自然主義的な人間観から一歩進んで、活動と労働を中核とする新しい人間観を築くに至ったのです。

 ここに、マルクスの人間疎外論がフォイエルバッハのそれと大きく異なった理由があるといえます。フォイエルバッハにとっては、人間の自己疎外は神を人間がつくり上げたことにあるということから来るものでしたが、マルクスにとっては、人間の本質である労働が対象化したものとしての労働生産物との関係において人間疎外の問題が説明されなければならないとしたのです。私有財産制に基づく資本主義社会が、労働生産物を労働者から奪うことになり、疎外が起こるようになるというのです。

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 次回は、「マルクスの矛盾点」をお届けします。

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