2023.05.03 22:00
スマホで立ち読み Vol.22
『日はまた昇る 蘇る日本』12
統一思想研究院・編著
スマホで立ち読み第22弾、『日はまた昇る 蘇る日本』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
1960年代から80年代にかけて日本と世界の共産化の危機を救ったのは、文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の勝共運動だった! 本書では文総裁の歩みを紹介し、共産主義の理論の批判と代案を提示するとともに統一思想の観点から見た日本再生のビジョンを提唱します。
---
Ⅰ 共産主義の終焉と天一国時代の到来
(11)共産主義の終焉を宣言
1980年、アメリカでもCAUSAという名前で勝共運動が始まりました。キューバの共産化に続いてニカラグアでも革命が起きて、中米が危なくなっていました。メキシコが共産化されればアメリカの南部の州が危なくなります。そこでCAUSAが組織されたのです。1980年の夏、CAUSAのメンバーが韓国に来て、李相軒(イ・サンホン)氏から統一思想と勝共理論を学びました。その時、CAUSAのリーダーである朴普熙(パク・ボヒ)氏より、李相軒氏に、アメリカでは学術性、資料性が要求されるので、資料のある勝共理論の教科書を作ってほしいという要請がなされました。それまでの教科書であった『新しい共産主義批判』は情熱にあふれた素晴らしいものでしたが、反共国家の韓国ではマルクス主義の資料を入手することが困難であったために、資料性に欠ける面があったのです。そこで、資料を取り入れた、学術性のある、新しい勝共理論の教科書である『共産主義の終焉』を造ることが決定されました。
韓国ではマルクス主義の資料を入手することが、困難であったので、日本から資料を提供することになりました。当時、日本はマルクス主義が花盛りで、マルクス主義の本はドイツ語の原書から全て日本語に翻訳されていました。またマルクス主義の学者たちが大学界を支配し、マルクス主義の研究書は山のようにあったのです。日本から資料を提供することになったので、日本語の堪能な李相軒氏は最初、日本語で原稿を書かれました。そして1984年2月1日、日本語版の『共産主義の終焉』が発刊されたのです。しかし世界に影響を与えるためには、英語版を出版しなくてはならないということで、日本とアメリカのメンバーが協力して、日本語版から英訳する作業を行いました。そして1985年7月11日、The End of Communismとして、英語版が発刊されました。40年荒野路程の最後の日である8月15日までに、かろうじて間に合いました。
英訳作業に携わっていたアメリカのメンバーがある時、夢を見ました。野原一面に墓がずらっと並んでいました。墓には鎌とハンマーの印が付いていました。それは共産主義で犠牲になった人たちの墓です。その時、天使が現れて、「共産主義は終わった」という合図のラッパを吹きました。すると墓から一斉に鳩が舞い上がったのです。これは何を意味するかと言えば、映画の「Lord of the Ring」の最後の場面で、善霊たちが悪霊たちと戦ったように、共産主義で犠牲になった人たちが動員されて、悪なる共産主義の霊界と戦うということを意味しています。それを絵にしたのが右の絵です(下図参照)。そこでは鳩が二羽しか描かれていませんが、実際は野原一面に鳩が舞い上がったのです。
1980年代の初め、文先生は銀行口座の利子所得を申告せず、脱税したという嫌疑をかけられ、陪審員による裁判を通じて、偽証罪、共謀罪などで有罪とされて、1984年7月20日、コネティカット州のダンベリー連邦刑務所に収監されました。その本質は文先生の活動を恐れる政府が主導した宗教裁判でした。しかし、文先生はダンベリー刑務所の中からも共産主義との闘いを継続されました。
1979年、サンディニスタ民族解放戦線によりニカラグアで革命が成功しましたが、それに対して反政府の民主主義勢力のコントラが革命政府と闘っていました。レーガン政権はコントラの支援をしようとしていましたが、アメリカ議会の反対のためにそれができませんでした。ところが文先生がダンベリー刑務所に収監されていたある日、ニカラグアの事態を解決しなさいという、神様からのメッセージがありました。
以前私がアメリカで監獄に入り、獄中の寝台に一人で横になっていると、神様が訪ねてこられ、信じる者がお前しかいないからニカラグアの事態を解決しろと命令なさいました。神様が訪ねられる人間が私しかいないですか。先進国を代表するというアメリカには2億4000万という国民と数えきれないほど多くの教役者たちがいるけれど、彼らを訪ねることができず、私を訪ねてこられた神様がどんなにあわれであるか見当がつくのです。……世界のために私が仕事をしなかったならば南米は既に廃墟(はいきょ)になったのです。(文鮮明『神様の摂理から見た南北統一』507)
そこで文先生は、自身が創設した「ワシントン・タイムズ」を通じて、コントラ支援を訴えました。その結果、レーガン政権は当初願った援助額の2倍の額の援助をすることが可能になりました。その後、ニカラグアの内戦は1988年に停戦となり、国連の監視下で大統領選挙が実施され、民主的な政権交代がなされたのです。
最近のアメリカの歴史においてこれに対する非常に良い例が一つあります。ニカラグアの情勢は、正しい心を持った人々にはあまりにもはっきりしています。アメリカ議会において、コントラに対して1400万ドルの援助を送ろうという提案がありました。しかし、その少額の援助すらもアメリカ議会が否決した時、何か重大な問題があり、もしそのような状況が放っておかれたならば、アメリカは困難な状況に陥るだろうということが分かっていました。アメリカ議会はその提案を全く否決しましたが、「ワシントン・タイムズ」はそれに対して強く反対の声を上げました。そのために決議がひっくり返されて、コントラは最初の援助額の2倍の額を得ることができるようになりました。(文鮮明 1985.8, 米国・バークレー)(『御旨と海』416〜17)
ある日、ダンベリー刑務所に文先生を訪ねた世界的に有名な政治学者、モートン・カプラン博士に対して、文先生は「1985年8月15日になる前にソ連の滅亡を宣布しなさい」と命令されました。カプラン博士は、無謀な宣言をして、自分の名声に傷がつくことを恐れ、「それは言い過ぎではありませんか。ソ連崩壊の可能性にしましょう」と提案したところ、文先生はソ連崩壊を宣言しなければならないと強く言われました。
「1985年8月15日になる前にソ連の滅亡を宣布しなさい」と言いました。そして、ジュネーブで教授アカデミーの会議を開催して、350名の世界の学者とソ連研究の専門家を集め、「ソ連は滅亡せざるを得ない」ということを宣布してしまいました。そのような条件を立てなければ、ソ連は降りていくことができません。……私がダンベリーの刑務所にいる時、世界的に有名なモートン・カプラン博士を呼んで、「『ソ連帝国滅亡』と言いなさい」と言いました。……そのように言ったところ「ソ連帝国は滅亡するかもしれない」と、「メイビー(maybe)」にしてはどうかというのです。しかし「駄目だ」と言って追い払ったのです。……宣布をしてあげてこそ共産党が崩壊するのです。(文鮮明『真の御父母様生涯路程⑦』426〜28)
かくして8月15日の直前の1985年8月13日から、スイスのジュネーブで「ソ連帝国の崩壊」をテーマにして、世界平和教授アカデミー主催の国際会議が開かれました。会場となったインターコンチネンタル・ホテルの目の前にソ連大使館があり、ソ連大使館に向かってソ連の崩壊を宣言するという驚くべき会議でありました。
1985年には、学術研究誌のThe End of Communismと雑誌“World & I”が発行されましたが、それは正に共産主義ソ連帝国の滅亡を予言する資料でもあったのです。
私は1980年代のはじめから、ソ連帝国の滅亡をテーマとして世界的な学術会議を開くようにと提案してきました。1985年に発行された学術研究誌は、共産主義ソ連帝国の滅亡を最初に予言した世界的な資料となりました。(文鮮明 1992.8.26, ソウル)(『ファミリー』1992.12,60)
---
次回は、「冷戦時代の終わりと再出発」をお届けします。お楽しみに!