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スマホで立ち読み Vol.22
『日はまた昇る 蘇る日本』10

統一思想研究院・編著

(光言社・『日はまた昇る 蘇る日本』〈2012101日初版発行〉より)

 スマホで立ち読み第22弾、『日はまた昇る 蘇る日本』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
 1960年代から80年代にかけて日本と世界の共産化の危機を救ったのは、文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の勝共運動だった! 本書では文総裁の歩みを紹介し、共産主義の理論の批判と代案を提示するとともに統一思想の観点から見た日本再生のビジョンを提唱します。

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Ⅰ 共産主義の終焉と天一国時代の到来

940年荒野路程の最後の3年間

 1977年、ソ連のブレジネフ書記長はワルシャワ条約機構(東欧共産国組織)で「1985年までに西欧を征服する」と秘密演説を行っています。

 1977年、ソ連はミサイルSS20を西欧に向け配備しだした。射程圏は5000キロで、全西欧を狙えた。これに対する西欧側のミサイルは射程700キロのパーシングⅠであった。この年、ソ連のブレジネフ書記長はワルシャワ条約機構(東欧共産国組織)で、われわれは1985年までに西欧を征服するとの秘密演説をした。(中村勝範「産経新聞」2007.1.24)

 ブレジネフはなぜ「1985年までに西欧を征服する」と言ったのでしょうか。1985年は、1945年から始まった40年荒野路程の最後の年です。ブレジネフの背後のサタンが1985年までにやれと命令していたのです。西欧を征服すればサタン側の共産世界の勝利が決定的なものとなるからです。そのためブレジネフは我知らず、そのような命令を発したのです。当時、ソ連のミサイルは西側のミサイルに比べて、総合的に優位にあり、西欧の征服は可能な状況でした。

 ソ連のミサイルSS20に対抗すべく、197912月、北大西洋条約機構(NATO)理事会はソ連が1983年末までにSS20を撤去しないならば、われわれはSS20に対抗できる米国製パーシングⅡを配備すると決定しました。それに対しソ連は、もしパーシングⅡを西欧に持ち込めば、SS20は西欧を火の海にすると脅すと同時に、お金とパーシングⅡ導入反対の工作員を多数西欧に投入しました。その時、イギリスのサッチャー首相が敢然と立ち上がり、米国製パーシングⅡの導入を決定しました。

 1983年、西欧の大都市で次々と数十万人から数百万人を超えるパーシングⅡ導入反対のデモと集会が展開された。ロンドンでも反対集会が燃え上がった。6月9日は英国の総選挙であった。野党である労働党は、サッチャー首相はパーシングⅡを導入しようとしているが、そうなればソ連の核攻撃を避けられないから、ソ連と話し合い、平和共存の道を選ぶと訴えた。サッチャー首相はすかさず切り返した。……サッチャー首相の率いる英国保守党は1935年以来、かつてない勝利を博した。英国民も現実的理性的であった。英国についでイタリア、西ドイツにもパーシングⅡは導入された。これらが突破口となり、冷戦は自由主義陣営の勝利へと大きく前進した。(中村勝範「産経新聞」2007.1.24)

 1983年から85年までの3年間は、40年荒野路程の最後の緊迫した期間となりました。カイン側の共産世界は手段を選ばず、共産化の工作を行い、アベル側の民主世界は必死に共産化を防備したのです。特に、1983年は、ソ連のミサイルによるKAL機撃墜、ビルマ(ミャンマー)における全斗煥(チョン・ドゥファン)韓国大統領一行に対する北朝鮮の爆弾テロ、ベイルートにおける米軍宿舎と仏軍本部に対する特攻テロなど、緊迫した事件が続出していました。

 アベル側のリーダーであったのはアメリカのレーガン大統領でした。レーガンは1980年の大統領選で当選しましたが、選挙戦では、最初は現職のカーター大統領が有利でした。人権外交を推進したカーター大統領は、ソ連に対して弱腰であり、その間、ソ連は目覚ましく世界共産化を進めていました。そこで何としても、ソ連に対抗できる強い大統領が必要でした。そこで文先生は「ワシントン・タイムズ」の前身である「ニューズワールド」紙を通じて、レーガンを支援し、強く雄々しくあれ、と激励されました。その結果、レーガンは地滑り的勝利を収めました。

 レーガンはソ連を悪の帝国と呼んで、悪の帝国に屈してはならないと強く出てゆきました。1983323日、レーガンはSDI(戦略防衛構想)の開発を指示しました。SDIは宇宙に配備したレーザー衛星によって、ソ連の核ミサイルを撃ち落とすというもので、SDIが配備されれば、ソ連の大量の核ミサイルも無に帰してしまうという、最高の防御システムでした。


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 ソ連のリーダーであるアンドロポフ書記長は追い詰められていきました。ソ連はアメリカのSDIに対抗するための技術も経済力もなかったからです。SDIは攻撃のためのものでなくて最高の防御装置なのに、脅威を感じたアンドロポフは、アメリカに攻撃されるのではないかというパラノイア(被害妄想)状態に陥っていきました。そして彼は全世界のKGB(ソ連の秘密警察組織)に「アメリカとNATO軍の動きを監視せよ。もし何か動きがあれば、核戦争が始まる。その時には先制核攻撃をかける」と緊急指令を発したのです。

 全世界のKGBの要員たちは、緊張していました。彼らはアメリカが核攻撃を仕掛けてくるとは考えていませんでした。しかし自分たちのリーダーであるアンドロポフが何を仕出かすか分からないと、かえってそのほうが不安であったのです。のちに西側に亡命した、元在英KGBの最高責任者のオレグ・ゴルジエフスキーはタイム誌に次のような証言を載せています。

 1983年3月、SDI、いわゆる“宇宙戦争”が打ち出されたとき、モスクワの中枢において、レーガンは先制核攻撃を考えているという確信が深まった。1983年11月の震えるような数週間の間に、世界は核戦争の奈落の淵にぞっとするほど近づいていた。西側に対するモスクワの妄想(パラノイア)があった。……「西側からの核の脅威」というアンドロポフの終末論的な観点はとても危険なものだった。(TIME , 1990.10.22)

 1983年1114日、米ソのINF(中距離核戦力)交渉は決裂し、米ソはヨーロッパでのミサイル配備競争を始めました。そして世界は正に核戦争の奈落の淵にぞっとするほど近づいていたのです。

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 次回は、「八大都市の全国勝共決起大会」をお届けします。お楽しみに!



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