2023.04.12 22:00
スマホで立ち読み Vol.22
『日はまた昇る 蘇る日本』9
統一思想研究院・編著
スマホで立ち読み第22弾、『日はまた昇る 蘇る日本』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
1960年代から80年代にかけて日本と世界の共産化の危機を救ったのは、文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の勝共運動だった! 本書では文総裁の歩みを紹介し、共産主義の理論の批判と代案を提示するとともに統一思想の観点から見た日本再生のビジョンを提唱します。
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Ⅰ 共産主義の終焉と天一国時代の到来
(8)日本における勝共活動
1960年代から70年代、日本の大学界は左翼一色になっていました。左翼は人民の味方であり、右翼・反共は帝国主義者たちで人民の敵であるという、異様な雰囲気がみなぎっていました。そういう状況で共産主義と闘うには決死的な覚悟が必要でした。
日本の最高学府である東京大学では、1968年から69年にかけて、左翼学生による東大闘争と呼ばれる紛争が起きました。彼らは東大の解体を目指していました。その結果、機動隊が導入されて安田講堂を占拠していた学生たちは排除されましたが、69年の東大入試は中止に追い込まれました。その間、原理研究会のメンバーは、多勢に無勢でありましたが、共産主義は間違いであると、学内や駅頭で訴えました。
70年代の後半に至り、左翼学生による原理研究会の学生に対する迫害が激しくなりました。東大の学内でも、原理研究会の学生は新左翼系の反原理共闘、および日本共産党系の民青の学生たちに取り囲まれながら、命懸けの理論戦を展開してゆきました。
カープの各キャンパスで、我々は共産主義に対する思想攻撃をかけていました。共産主義の理論は統一教会の教えとは比較にもなりません。彼らは日本の大学のキャンパスでの討論会で私たちを打ち負かそうと努力したのですが、反対に、威信を失墜するほどに打ち負かされてしまいました。我々の持つ真理は明らかに疑問の余地もなく、彼らの持つ理論を越えていました。また日本のメンバーたちは、彼らよりもずっとはるかに一生懸命働きました。ついに彼らは最後の手段に訴えざるを得なくなりました。我々に対して暴力を使い始めたのです。彼らは路上に連れていき、そこで闘いたい、我々をそこで脅かしたいと思いました。カープに濡れ衣を着せ、攻撃をかけてきたこともしばしばありました。我々はそれに立ち向かいました。我々は先に攻撃をかけたいと思ったことはありませんでした。
彼らの攻撃に対して自分を防衛しただけでした。日本のカープ・メンバーは韓国のマーシャル・アーツの最高のものを学び、死ぬ準備もできていました。多くの若者が攻撃されたけれども、彼らは自己防衛をしただけでした。(文鮮明 1982.9.5, ニューヨーク)(『御旨と海』229)
1978年、京都の知事選挙において、勝共連合と日本共産党の壮烈な闘いが行われました。共産党員である蜷川知事が、京都を長年にわたって支配していました。自民党は何とかして京都を共産党から奪還しようとしていましたが、自民党には青年がいませんでした。その結果、自民党は全国から青年を動員してくる共産党に、いつも選挙戦で敗北を喫していたのです。この年、勝共連合と原理研究会のメンバーが京都に集結して自民党の候補を応援しました。他方、共産党も青年組織である民青を全国動員して京都に集結して激しい選挙戦が行われました。共産党陣営は圧倒的多数でしたが、結果として、自民党が勝利して、共産党から京都を奪還したのです。
日本の京都で我々食口430名が、共産党15万名と戦ったのです。戦った末に共産党が負けたのです。どのような作戦を行ったのかと言えば、毎日、1日1300軒の家を訪問したのです。1300軒の家を突破したというのです。毎日、1日に1300軒を訪問することが簡単なことでしょうか。(文鮮明『神様の摂理から見た南北統一』773)
日本共産党の宮本委員長は京都の敗北に重大な危機感を抱き、次のような談話を発表しています。その中で「勝共連合を退治することは、後世の歴史に記録される“聖なるたたかい”である」と言いました。神を否定する共産党が聖戦を叫ぶのは、全く筋違いな話です。
さらに国際勝共連合とのたたかいの問題では、これが民主勢力全体、民族と国民の主権と独立、自由、民主主義にとって重大なたたかいであることを強調。大衆闘争、イデオロギー、国会、法律の分野で、また被害を受けている勢力が共同して、全面的なたたかいにしていく必要があるとのべ、自民党に対しては“勝共連合といっしょにやれば反撃をくって損だ”という状況をつくることが肝要だとし、“勝共連合退治”の先頭に立つことは、後世の歴史に記録される「聖なるたたかい」であると呼びかけました。そして、きたるべき総選挙での日本共産党の躍進こそ……反動勢力に攻め込まれ各個撃破にさらされている日本の革新勢力全体の巻き返しの最初の号砲となると強調しました。(日本共産党・宮本委員長の談話『赤旗』1978.6.8)
文先生も、シカゴで開かれた第12回ICUS(科学の統一に関する国際会議)において、京都での選挙戦に言及して、次のように語りました。
日本共産党は統一運動を彼らの主要な敵と見ています。彼らの統一運動に対する闘争は、日本資本主義や米帝国主義との闘争以上に緊急かつ重要であると公言しています。1978年6月5日から7日に開かれた日本共産党全国大会で当時の宮本委員長は、統一運動の打倒は歴史に記憶される正義の闘争であり、全民主勢力がこの歴史的任務に総力をあげて取り組むよう指示しました。このため、共産主義者はわれわれに反対するための数百にのぼるグループを動員しています。(文鮮明、第12回ICUSでの講演、1983年、シカゴ)
元総理府総務副長官の弘津恭輔氏は、京都知事選における勝共連合の壮烈な闘いを感動的に評価して、次のように語っています。
「勝共連合」の運動の歴史の中で、私が一番感動を覚えたのは、1978年の京都蜷川革新府政を打倒した時の、知事選における勝共連合の壮烈な闘い振りであった。当時、28年も続いた「京都蜷川革新府政」は、「京都共産王国」とか「人民共和国蜷川府政」とかマスコミ界で騒がれていたのである。(弘津恭輔、思想新聞 2008.6.1)
鳥取大学の元倫理学科の教授であり、後に、日本の武士道のバックボーンである山鹿素行の研究会の会長を務められた井上順理先生は、1960年代の大学紛争の頃、大学側の代表として過激派学生たち(中核派)と正面から対決しました。井上先生は、原理研究会の学生たちが左翼学生たちと戦っている姿を見て感動し、「右翼団体は数多くあれども、日本革命を叫ぶ左翼勢力と真剣に、命懸けで戦ったのは原理研究会、勝共連合の諸君であった。私はそのことを決して忘れない」と語りました。そして済州島で開かれた「教授招聘勝共学術セミナー」(1986・8)で李相軒(イ・サンホン)氏から勝共理論の講義を聞いて、「共産主義に対して真正面から立ち向かい、反撃できる理論は、この勝共理論しかないだろう」と感想を述べました。(『二十一世紀を担う統一思想』)
1970年代、日本は正に革命前夜のような状況にありましたが、勝共連合、原理研究会の青年たちが立ち上がり、「共産主義は間違いである」と叫び続けていきました。日本の政治家、経済人たちも共産主義の脅威に目覚めていきました。その結果、燎原(りょうげん)の火のごとく燃え広がっていた共産主義・左翼勢力は急速にしぼんでいき、日本は共産化の危機を逃れることができたのです。
大阪、名古屋、京都のようなところは共産党が勢力を握っている場所です。ここにおいて、原理研究会の学生たちが命を懸けて決死的な活動をした結果として、日本のあらゆる経済人たちが、この共産党のやからと戦わなくてはならないのだということを自覚するようになりました。(文鮮明『神様の摂理から見た南北統一』773)
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次回は、「40年荒野路程の最後の3年間」をお届けします。お楽しみに!