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シリーズ・「宗教」を読み解く 263
キリスト教と日本㊷
熊本洋学校と熊本バンドの誕生

ナビゲーター:石丸 志信

 明治に入って熊本にも官製の洋学校が設立された。横浜に次いで、この洋学校で学ぶ学生たちの間からプロテスタント伝道の炎が燃え上がることになる。

 1871年、洋学校の教師として米国から退役軍人リロイ・ラシング・ジェーンズが招聘(しょうへい)された。
 彼は、陸軍士官学校出身で南北戦争に従軍経験を持つ大尉。宣教師ではなかったが米国オランダ改革派の信仰を持つ熱心なクリスチャンであった。
 米国陸軍士官学校のような国家に有用なリーダーを育成するハイレベルな学校にすることを目標に、全寮制で規律ある教育を施した。教師としては、英語のみならず、歴史から物理、化学まで全科目を一人で担当した。


▲リロイ・ラシング・ジェーンズ(ウィキペディアより)

 3年契約の2年間はキリスト教に関して何も語らなかったが、3年目になって、キリスト教が西洋文明の基礎をなしていることに触れ、毎週土曜日に自宅で聖書研究会を始めた。
 そこに集う有志学生らがキリスト教に引かれ信仰の火がともされるようになった。

 1875年、冬休みに入って連日祈祷会が開かれると、そこで霊的復興が起こり、彼らの入信に対する熱意が高まっていった。
 そして1876130日、ジェーンズに感化を受けた35人の青年が、熊本城外の花岡山に登り、賛美歌を歌い決死の覚悟で祈祷をささげた。

▲花岡山の熊本バンド奉教の碑

 彼らはここでキリスト教に入信し、この信仰を広く日本に広める決意をまとめた「奉教趣意書」に署名し、天に誓約した。
 この誓約で結ばれた青年の一団は、「熊本バンド」と呼ばれるようになる。
 花岡山に建てられた熊本バンド奉教の碑には、35人の名が記されている。

 後に牧師で同志社大学総長となる海老名喜三郎(後の弾正)の名も見いだされる。
 明治近代日本のプロテスタント教会の歴史は、こうした青年たちによって土台が築かれていった。

 熊本バンドが誕生する花岡山での祈祷会がなされた時は、すでにキリシタン禁教令の高札は取り下げられていたが、キリスト教に対する世間の目は厳しいものがあった。

 世に知れ渡った「邪教」観は短時間に拭われるものではない。実際、猛烈な反対が起こり、熊本洋学校は同年閉鎖された。
 主だった学生たちは、新島襄によって新設された同志社英学校に移り、同校の中心的存在となっていく。

▲花岡山からの眺望


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