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シリーズ・「宗教」を読み解く 261
キリスト教と日本㊵
日本語を学ぶ宣教師たち

ナビゲーター:石丸 志信

 ジェームス・カーティス・ヘボンの来日と同年の1859年、米国オランダ改革派教会の海外伝道局から派遣されたサミュエル・ロビンス・ブラウンは、ヘボンと共に日本語学習と聖書の和訳に取りかかった。


▲中央がサミュエル・ロビンス・ブラウン(ウィキペディアより)

 1867年に一時帰国し、2年後に再来日。新潟英学校、横浜修文館の英語教師を務めた後、1873年、横浜に私塾・ブラウン塾を開き、日本のプロテスタント教会の中軸を担う人材を輩出する。

 その中には、植村正久、押川方義、井深梶之助、本多庸一、奥野昌綱らがいた。
 ブラウン塾はその後、東京一致神学校に合流、明治学院邦語神学部の前身となる。

 1861年に、ブラウンと共に来日したシモンズに代わってジェームス・ハミルトン・バラがマーガレット夫人を伴って来日。バラは、神学生時代にブラウンの日本宣教の宣伝に感銘を受け日本宣教を決意していた。

▲ジェームス・ハミルトン・バラ(ウィキペディアより)

 神奈川に到着後、ブラウンの住む成仏寺に住み日本語の勉強を始めた。
 この時、日本語教師として紹介されたのが鍼灸(しんきゅう)医の矢野隆山、日本人で最初にプロテスタントの洗礼を受けた人物だ。

 バラは矢野から日本語を学びながら、聖書翻訳にも協力を依頼し、まずは漢文の聖書を日本文に翻訳してもらった。

 矢野は、バラたちに熱心に日本語を教え、聖書翻訳作業にも協力しながら次第にキリスト教信仰に目覚めていく。
 しかし彼は肺結核を患い、回復困難な状況になった。死期を悟った矢野は、キリスト教の正しさを確信したとバラに告白し洗礼を懇願した。

 1865年115日、家族とヘボンの立ち合いのもとでバラが洗礼を授けた。
 洗礼後、矢野は「イエス様の所に参ります」と穏やかな表情で語ったという。その1カ月後に彼は亡くなった。

 これは、長崎の大浦天主堂で潜伏キリシタンが発見された年で、まだ禁教令の高札が掲げられており、浦上四番崩れと彼らの悲惨な「旅」がこれから起ころうとしている時だった。



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