2023.03.21 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 259
キリスト教と日本㊳
日本プロテスタント諸教派史のあけぼの
ナビゲーター:石丸 志信
幕末の日本に初めて来訪したプロテスタント宣教師は、米国聖公会が派遣したジョン・リギンズとチャニング・ムーア・ウィリアムズだった。
ペリー提督が浦賀に現れ、1854年には日米和親条約が結ばれた。幕府は鎖国政策から開国に踏み切った。
1858年には、全権を任されたタウンゼント・ハリスにより日米修好通商条約が締結され、彼が初代駐日公使となった。
聖公会の信徒でもあったハリスは、その条約に米国人に対して信教の自由を保障し、居留地内の教会設置を認める条項を入れていた。この条約の成立を見越して、二人の宣教師を日本に迎え入れ、彼らの活動をサポートしたのだ。
1859年、中国で宣教活動をしていたリギンズとウィリアムズが相次いで来日。長崎奉行の要請もあり、長崎通詞(つうじ/江戸幕府の世襲役人で公式の通訳者)たちに英語を教える私塾を開設。外国人のための礼拝も行うようになった。
リギンズが体調を崩して帰国すると、代わって宣教医であったシュミットが来日し、医療活動に従事するとともに地元の医師に西洋医学を教えた。
1862年10月に日本で最初のプロテスタントの教会となる英国聖公会会堂が長崎の東山手居留地内に完成した。
これは、カトリック教会が建立した大浦天主堂よりも2年早い。聖公会会堂のチャプレンに就任したウィリアムズは、禁教令が解かれることを願いながら、日本語の習得、聖書や祈祷書の翻訳にも取りかかっていた。
この時期、高杉晋作、大隈重信、福島種臣、前島密らが彼の下で英語や欧米の事情、制度を学んでいる。
1864年に中国・日本伝道主教に指名されたウィリアムズは、一時米国へ帰国し、1866年10月に聖別式を経て主教に任命された。
1869年、中国各地を視察した後再来日したウィリアムズは、拠点を長崎から大阪に移し、大政奉還後の日本での活動を開始する。
1874年には首都となった東京に移り、築地居留区に立教大学の前身となる私塾を開設、教会堂も建設した。さらに、女学校、神学校をつくり、日本聖公会の基礎固めを進めた。
聖公会(アングリカン・コミュニティー)の日本宣教は、米国聖公会と英国聖公会、カナダ聖公会など複数の宣教団によってなされてきた。
互いに協力的に進めてきたものの、1887年2月11日、協議の末に日本聖公会の創設に至った。
ウィリアムズ主教は日本聖公会の初代主教としてその後の発展に尽くした。
半世紀にわたる日本での宣教活動を終え、1908年には老衰により帰国。1910年に故郷バージニア州リッチモンドで逝去した。
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