2023.02.21 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 255
キリスト教と日本㉞
安太郎と聖母マリア
ナビゲーター:石丸 志信
1999年の年の初めに「ザビエル歴史街道」巡礼の旅に出たことがあった。
宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えてからちょうど450年の年に、改めて彼の歩みをたどってみたかったからだ。その機会に津和野(島根県津和野町)まで足を延ばしてみた。
そこは浦上四番崩れで流刑となった信徒ら153人が配流された所で、彼らは町の西側の山を少し登った乙女峠の廃寺光琳寺に収容された。
津和野藩は、国学者に信徒の説得に当たらせたが、彼らの信仰が固かったので、拷問を加えて棄教を迫った。
見せしめのため、一人の青年安太郎が裸にされて三尺牢に入れられ、雪降る真冬の境内に数日間放置された。
数日後、心配になった数人が彼を励ますため密(ひそ)かに牢の所まで行って「寂しくはないか」と声をかけた。
すると安太郎はこう答えた。
「わたくしはさみしゅうはござりませぬ。九つ(十二時)よりさきになりますれば、青い着物を着、青い布をかぶり、サンタ・マリア様の御影の顔だちに似ておりますその人が、物語りいたしてくださるゆえ、すこしもさみしゅうはござりませぬ」(『乙女峠』永井隆・著 サンパウロ 2012年)
津和野での苛酷(かこく)な5年間を生き延びた守山勘三郎が覚書にこの言葉を残している。
安太郎は、勘三郎たちが見舞った3日後に亡くなったと覚書にはある。
勘三郎と共に生き延びた高木仙右衛門も5年間の拷問や殉教の様子を詳しく記録に残したので、明治になってもなお続いた厳しいキリシタン弾圧政策の内実が明らかになった。ここ津和野では、安太郎をはじめ37人が殉教している。
守山勘三郎の弟裕次郎もその一人。勘三郎の信仰が揺らがないので、14歳のか弱い弟を拷問にかけ、悲鳴を上げて苦しむ姿を見せつけた。
祐次郎は懸命に祈りながら拷問に耐え抜き、棄教を口にすることはなかった。しかし肉体の限界が訪れ兄姉にみとられながらその魂を天に帰した。
1951年に、この地に聖母マリアと37人の殉教者にささげる聖堂が献堂された。
ザビエルによるキリスト教伝来450年を記念する巡礼だったが、津和野の「マリア聖堂」に立ち寄った日はくしくも安太郎の殉教から130年目の1月17日だった。
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