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シリーズ・「宗教」を読み解く 254
キリスト教と日本㉝
外交公使団の抗議と「浦上の旅人」たち

ナビゲーター:石丸 志信

 日本キリシタン史上、最後の大規模な迫害となった「浦上四番崩れ」は、明治維新前夜の1867年7月に始まった。
 7世代にわたって密かに信仰を守ってきた「潜伏キリシタン」が一斉に捕らえらえた。一斉検挙によって、潜伏キリシタン組織を壊滅させようとするこの出来事は「崩れ」と呼ばれた。

 浦上キリシタンに対する明治政府の決定は流罪に処することだった。
 まず、18686月に指導的立場にある114名が津和野、萩、福山に流された。
 1870年1月には、浦上に残るキリシタンの一斉検挙があり、村人のほとんどが捕らえられた。
 最終的に、3394人が20藩に送られた。

 配流地を列挙すると、金沢、石川大聖寺、名古屋、津(伊勢二本松、伊賀上野、大和古市)、郡山、富山、和歌山、姫路、鳥取、松江、津和野、広島、福山、岡山、山口(萩)、徳島、高松、松山、高知、鹿児島の2022カ所。少なくとも、西欧諸国の手前、家族は同じ組に入れるよう配慮はされていた。


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 政府役人は、流罪とは言わず、誤った教えに惑わされ国法を犯した者たちを教導するための処置と説明していた。
 キリシタンたちはこれを「旅」と呼び、ゴルゴタの丘につながる道をたどる殉教への旅と捉えた。
 殉教への潔い覚悟は、かつての日本26聖人殉教者や、元和時代の殉教者たちと全く変わらなかった。

 明治政府のキリシタンに対する処置は外国公使団の抗議を浴びることになる。
 アメリカ代理公使は、「現代文明のしきたりを用いなさることがもっとも肝要だと存じます。日本の農民や町人が、国民としての義務を怠っていないのに、宗教信仰のことで、諸藩にひき渡し労役に服させたり、処罰したりすることを外国人が聞けば、その悲嘆はいかばかり。これまでの和親の情もたちまち損なわれることは必定」(片岡弥吉著『日本キリシタン殉教史』時事通信社 昭和54648ページ)との書簡を送ってきている。

 明治政府は、キリシタンたちに別段の罰を加えるつもりはないと返答している。加えて、彼らを改心させようと手を尽くしてもなお、神社を侮辱したり、村の不和を引き起こしたりなど、国法に背くので、仕方なく諸藩預かりとしたと弁明したのだ。

 外交公使団はこの回答を不服として、政府高官、外務省役人らとの会談を申し入れた。
 会談では、政府は外交公使団の抗議を一蹴することに努めるばかりだった。その結果、「浦上の旅人」たちは5年間にわたる配流地での非人道的な扱いを受けることを余儀なくされ、旅の途中命を落とす者も多く出た。



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