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スマホで立ち読み Vol.20
『要約 統一思想・勝共理論』16

統一思想研究院・編著

(光言社・『要約 統一思想・勝共理論』より)

 スマホで立ち読み第20弾、『要約 統一思想・勝共理論』を毎週金曜日(予定)にお届けします。
 膨大な内容で構成されている統一思想と勝共理論を、分かりやすく要約しました。統一思想で神について学び、勝共理論で神の存在を否定する共産思想の間違いについて学びます。

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第二部 勝共理論
第二章 唯物論の批判とその代案

一 唯物論の武器性

 マルクスは自身の唯物論を従来の唯物論と区別するために「戦闘的唯物論」と呼んだ。戦うための唯物論という意味である。革命には暴力、破壊、殺戮(さつりく)などが伴うようになるために、暴力革命の遂行には、人道主義、感傷(かんしょう)主義、機会主義のような穏健(おんけん)な性品はむしろ支障になるのであり、無慈悲な、闘争的な人間性が要求される。したがって人間観自体、どこまでも動物的なものでなければならない。動物が進化して人間になったのであるから、利用価値のない動物は屠殺(とさつ)してもかまわないように、利用価値の全くない人間も殺してもよいと見るような無慈悲性、暴悪性をもたなければならないというのである。それが戦闘的唯物論、共産主義唯物論の核心概念である。それだけでなく、マルクス(およびその追従者たち)は自然科学はもちろん、社会科学も主として物質的に扱っており、歴史の発展も物質的にのみ扱っている。そうして自然界の物質法則を人間が止められないように、暴力革命による歴史発展も物質的法則によるものであるために、それを人間が止めることはできないという。そのように歴史観(唯物史観)の成立においても、唯物論を武器として用いているのである。

二 唯物論の批判
(一)批判の理由

 唯物論それ自体は一つの哲学(存在論)であるために、それを正しいかとか、間違いであるかと問いただす必要はない。人間には思想(哲学)の選択の自由があるからである。しかし人格の尊厳性を無視し、人間の虐殺を正当化させる哲学には断固として反対しなければならない。共産主義唯物論に反対する理由はまさにそこにある。

 ところで共産主義唯物論においても、唯物論それ自体は自由世界の人たちがもっている唯物論(これを自由主義唯物論と呼んでもよい)と異なるところはない。ただ、それを悪の目的に使用するから反対するのである。善の目的のために作られたナイフを、強盗は金品を奪い殺害する悪の目的のために使用するために、無知な子供たちにはナイフはそのように使うものではないと教えなければならない。同様に、唯物論自体の真理の限界性を明らかにして、暴力革命を合理化させることはできないと論証しなければならない。共産主義者たちは、唯物論が絶対的な真理であると信じているために、人間を動物視することができ、目的遂行のためには人間の虐殺、建物の破壊もやむをえないと見ている。したがって唯物論が唯一の真理ではないことを論証して、彼らの主張が独断であるということと、人間の虐殺が非常に大きな罪であることを明らかにすることが必要である。これが唯物論を批判しなければならない理由である。

(二)批判の内容

 唯物論の要点は「物質から精神が生じた」、「物質が先次的で、精神は後次的である」というものである。このような主張はどこまでも一つの可能性に関する見解にすぎない。これを唯一、絶対的な真理であるかのように主張しているが、それが彼らの独断であり臆説(おくせつ)にすぎないことを明らかにする。

 共産主義者たちは、精神が物質から生まれたという主張の根拠を、宇宙の発展の事実と脳細胞の精神現象においている。地球の形成過程は、何らかの精神による創造過程ではなく、数十億年という長い期間の物質的発展の過程であり、その物質的過程の最後の段階において人間(精神)が出現したというのが科学的事実である。また物質から精神が生じたのが事実である。物質的要素から成る脳細胞が破壊されたり麻酔をかけられるとき精神に異常が起き、脳細胞が健全であるとき精神も健全であるということから見て、脳細胞から精神が生じるのは間違いない真理であるというのである。

 次にこのような主張を批判する。第一に、宇宙の物質的発展の結果として精神(人間)が出現したという論理が成立すれば、宇宙の発展運動は不可逆的で一定の方向性を志向した運動でなければならない。そのような運動であるならば、その不可逆性と方向性が必然的であったか、偶然であったか、明らかにされなければならない。共産主義者たちは、そのような検討をすることなく、物質の先在性を主張している。万一、その運動の不可逆性、方向性が、あたかも結実を目指している、不可逆的で方向性を帯びた植物の成長のようなものであるとすれば、宇宙の発展においても、その始発点からすでに宇宙生命というべき精神的要素が作用していたと見なくてはならない。なぜならば、植物の成長が不可逆的で方向指向的なのは、その植物の成長の出発点である種の中に、すでに精神的な要素である生命が入っており、その生命が結実を目指しながら成長過程を調整していると見ることができるためである。

 第二に、脳細胞から精神が生じたという論理が成立するためには、心的要素が脳細胞の背後に潜在(せんざい)し、それが脳細胞を通過して出てくる現象が精神または意識になるという可能性が排除されなければならない。例えばラジオの場合、ラジオの装置から出てくる音声(または音楽)は、ラジオから直接生まれるものではなく、放送局からの音声(または音楽)が電磁波に乗ってきて、ラジオの装置を通過するとき、音波に変わって出てきたものである。そのように、脳細胞においても、心的要素が背後にあって、それが細胞を通過して出てくるのが精神といえないであろうか(図24を参照)。脳細胞の障害の有無による精神の健全さの判断だけでは、そのような区別は明らかにされないのである。唯物論の真理性はあくまでも一つの可能性にすぎず、絶対、唯一のものではない。それにもかかわらず、彼らは唯物論があたかも科学的に証明された科学的真理であるかのように主張しているので、独断も並大抵ではないのである。

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 次回は、「唯物論の代案」をお届けします。お楽しみに!



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