シリーズ・「宗教」を読み解く 250
キリスト教と日本㉙
長助・はる夫妻とシドッティ神父

ナビゲーター:石丸 志信

 シドッティ神父の切支丹屋敷での幽閉生活は3年余り静かに過ぎていった。
 毎日2食の食事と間食が与えられえ、拷問や棄教を強いられることもなかった。

 多くの人々に福音を宣(の)べ伝えることはできなかったが、修道院でのごとく深く祈りに専心することができた。囚(とら)われ人であった神父の食事と身の回りの世話をする下僕まであてがわれていた。

 下僕の名は長助とはるという老夫婦。二人とも罪人の子で幼い頃に切支丹屋敷に引き取られ下僕として働き、成長して夫婦となっている。
 彼らもまた屋敷内で生涯を送る身の上だった。切支丹屋敷の最初の住人となったジョゼフ・キアラ神父らの世話をし、彼らの最期を看取っている。

 シドッティ神父の切支丹屋敷での幽閉生活が4年目の冬、長助・はる夫妻は、奉行の前に出て、切支丹の洗礼を受けたと自供した。そのため、この夫婦と洗礼を施したシドッティ神父の3人は、狭い地下牢に閉じ込められた。

▲「聖母像(親指のマリア)」国立博物館蔵、17世紀イタリアの作でシドッティ神父が日本に持参したもの(ウキペディアより)

 神父は、日ごと夜ごと彼らの名を大声で呼び、信仰を保つよう励まし続けた。しかし減食と劣悪な環境での幽閉生活で衰弱し、哀れな老夫婦は相次いで亡くなった。

 彼らを最後まで見守ってきたシドッティ神父も2週間後には力尽き、天の父の御許(みもと)に旅立った。
 1714年の晩秋、長助55歳、シドッティ神父47歳だった。3人は切支丹屋敷内の裏門脇に密かに埋葬された。

 切支丹屋敷には幽閉者は一人もいなくなり、10年後江戸の大火に見舞われほぼ全焼し、蔵だけが残った。
 屋敷は再建されず役人の管理下に置かれていたが、1792年に蔵も取り壊され、敷地は武士たちに分割された。切支丹屋敷も切支丹の存在も忘れ去られていった。

 ところが、2014年夏、集合住宅建設の工事の際、切支丹屋敷跡から3体の人骨が発見された。
 発掘調査とDNA鑑定の結果、この3体はシドッティ神父と長助・はる夫妻だと分かった。

 切支丹弾圧政策が徹底されていた18世紀、ローマから単身日本に潜入した宣教師シドッティ神父の生涯が、300年後に生きる私たちの前に再びよみがえってきたのだった。



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