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創世記第3章[10]
罪と堕落性本性

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 統一原理は「罪」と「堕落性本性」の概念を明確に区別しています。ところがキリスト教ではそれらの概念を一緒くたにし、両方を合わせて「原罪」として理解しています。すなわち堕落行為をしたことに対して罪責(罪の責任)を持つという意味での「原罪」と、罪を犯す傾向性を持つという内容面(性質)の歪みとしての「堕落性本性」の二つの概念を区別しないまま同じものとして扱っています。

キリスト教は罪と堕落性本性を同一視
 例えば『キリスト教事典』(いのちのことば社)には「原罪には二つの要素が含まれる。すなわち、根源的咎(とが)という神の正義に関係する面と、神の聖にかかわる根源的腐敗の性質とである」(410ページ)と述べられています。根源的咎とは、統一原理でいう「原罪」に、根源的腐敗の性質とは「堕落性本性」にそれぞれ相当するものであると言えるでしょう。

 『原理講論』に「罪とは…天法に違反するようになることをいう」(121ページ)とあるように、原罪とは、人間始祖が神の戒めを破って天法(神の意思、神の創造目的)に違反したことを意味するので、それは関係概念に属するものです。従って罪とは、私たちの肉体や血液の中に生物学的に宿っているものではありません。

 一方、堕落性本性とは、堕落していく過程で偶発的に生じた天使長の性質が〔偽りの〕愛によって一体化することでエバとアダムへと伝播(でんぱ)し、それが人格的性質の歪み(内容面の変化)を生じさせたことを意味します。

 従って、堕落性本性は人間自体の内に宿っている性質のことを意味するので、罪と比べて、より存在論的概念であると言えます。ただし、間違ってならないのは、いくら堕落性本性が存在論的だといっても生物学的に宿っている性質ではないという点です。

 堕落の経路を見れば分かるように、天使長とエバが霊的性関係を結んだ時、天使長は肉身を所有していませんでした。しかし天使長の抱いた思い(堕落性)は、エバの肉身を土台としてエバの霊人体を汚染し、エバへと伝播したのです。

 故に堕落性本性の伝播は生物学的なレベルとは全く違う次元で起こっています。『原理講論』に「善悪の果(み)を取って食べて堕落したアダムとエバ…彼らには、外形的には何らの異変も起こらなかった」(214ページ)とあることからもそれが分かります。

神、人間、万物の関係性が破壊
 ところで堕落後のアダムとエバは、(神の顔を避けて…身を隠し)「あの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べた」「蛇がわたしをだました…」と言って責任転嫁をしています。この聖句は、アダムとエバが堕落性本性を持つ存在となったことを示すものです。

 『原理講論』に「愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受ける」(109ページ)とありますが、すでに30で述べたように、1節の狡猾(アルーム)と7節の裸(エルミーム)の言葉の語呂合わせは、まさにその原理を裏付けていると言えます。

 さて、314節以下を読むと、蛇、エバ、アダムという順序で、神から処罰が語られています。そのことについて並木浩一氏は「アダムつまり男は最終的な責任者であります。責任の軽い者から順に、処罰の言葉が語られています。確かに、蛇が直接誘惑したのですが、責任を蛇に押しつけたところで、そんなことは人間の最終的な責任のとり方ではありません。はじめに蛇に処罰が告げられ、女にも告げられますが、アダムに対して一番長く告げられています」と主張しています。

 この並木氏の解釈は、アダムとエバの持つ罪責に違いがあることを指摘するものとして評価できます。

 「わたしは恨みをおく、おまえ(蛇)と女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に」(15)、「あなた(エバ)は苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(16)、「あなた(アダム)が…取って食べたので、地(万物)は…のろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」(17節)の聖句は、人間が犯した罪のため、神、人間、天使長(万物)の関係性に破れが生じたことを表しています。

 故に、(1)神と人間、(2)人間と天使(万物)、(3)アダムとエバの間にある「罪責」を清算し、本然の関係性を回復しなければなりません。

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 次回は、「創世記第3章[11]中心人物アダムの喪失」をお届けします。