2022.10.30 22:00
創世記第3章[6]
罪責の所在
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
創世記2章23節の「これこそ、ついにわたしの骨の骨…。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」をヘブライ語原典で読むと、男はイシュ、女はイシャーといい、語呂合わせの言葉となっています。ルターはマンという言葉に対してメニンという言葉を造語し、語呂合わせをしたほどです。この語呂合わせは、互いになくてはならない男と女の親密な関係性を表していると言えます。まさに男と女は神を中心とした緊密な交わりを持つべき存在として創造されていました。
最悪はサタンと断罪しがち
ところが創世記3章1節で蛇が登場しますが、その蛇を形容する狡猾(アルーム)という言葉と、3章7節「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることが…」の裸(エルミーム)という言葉の間に、もう一つの語呂合わせが存在しています。フランシスコ会訳聖書の注解は「『狡猾な』へびに関する語句と『裸』の人祖に関する語句との間にしゃれが含まれている…この二つのヘブライ語の子音は同じ」と説明しています。
しかも、蛇が登場する以前は「裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」にもかかわらず、女が誘惑され、続いて男も食べると「ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかった」という文脈からこれらの語呂合わせを考察すると、本来、神を中心に親密な交わりをもつべきアダムとエバ(イシュとイシャー)が、堕落して蛇(アルーム)の影響圏下に入ってしまったこと(エルミーム)を暗示していると言えます。
前回、目的性から見た善と悪について述べましたが、まさにエバが神を中心にイシュへ向かうのか、それとも狡猾(アルーム)な蛇へ向かうのかによって善か、悪か、が決定される可能性があったという意味において、エバを「善悪を知る木」に比喩したのだと言えます。
さて、キリスト教の伝統的な解釈では、蛇とはサタンであり、そのサタンがエバを誘惑し、さらにエバがアダムを誘惑して失楽園が起こったと考えてきました。従って、最も悪いのはサタンであり、次に過ちを犯した張本人としてエバを断罪してきました(参考・テモテ2・14)。いわばアダムが最大の被害者であったという考え方です。ゆえにキリスト教では、最も悪いサタンは永遠の火の刑罰で滅ぼすべきであり(黙20・10)、また女性は男性より罪深い存在だと考えがちでした。
ならば、なぜ神様はまずアダムへ「食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」と責任追及し、続いてエバに責任追及したのか、そして最後に、蛇に対しては「おまえは、この事を、したので…一生、ちりを食べるであろう」と、むしろその結果についてのみ触れるに終わっているのか、そこに矛盾があると言わざるを得ません。
失楽園の罪責は人間側にある
以上のキリスト教の考え方に対し「統一原理」はそうではありません。蛇をサタンではなく天使長だと見ます。また『原理講論』に「堕落したアダムは…神の心情に…深い悲しみを刻みこんだ罪悪の張本人」(299ページ)と述べられているように、失楽園に対して最も大きな罪責(罪の責任)を担っているのはアダム、次にエバであり、蛇はむしろある意味で被害者であったと見るのが「統一原理」の立場です。
「取って食べるな」という戒めを与えられたのは人間であり、しかも「もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が…残っているがゆえに…エバに対する復帰摂理はごく容易であった」(111ページ)とあるように、失楽園に対する罪責はまずアダムに、次にエバ、つまり人間側にあるのです。
故に怨讐サタンを滅ぼせば復帰摂理が終わるという単純な救済論ではなく、「人間は責任を果たしていない」と讒訴してきているサタンを、怨讐をも愛する「真の愛」によって自然屈伏しなければ復帰摂理は終わらない。そのために第二、第三のアダム(メシヤ)がこの地上に遣わされなければならないと考えているのが「統一原理」の摂理観です。
故に、関根正雄氏が『創世時代講解』で、「三章の場合に、決して悪がどこから入ってきたかということを言わない…。神はこの場合欲しなかったと言っている…悪を神が造ったというのでしたら、神の責任を追求しなければならない…。あるいは創世記三章で、蛇が悪い…蛇がサタンだというのでしたら、人間に責任はありません。…ところが創世記三章は、実はそうは書いてない…。蛇というのは神が造ったもので、サタンでも何でもないのです。それが蛇に代表されるあるものが、女と話し合っている過程で、女の決意を通し、罪がこの世に入ってきたと書いてある」と説明しているその解釈は、極めて「統一原理」に近づいてきており、高く評価できます。
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次回は、「創世記第3章[7]善悪の果を食べる」をお届けします。