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創世記第3章[7]
善悪の果を食べる

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 堕落したことに対する罪責(罪の責任)は天使長ではなく人間側にあります。文鮮明(ムン・ソンミョン)先生のみ言に「サタンは私たちの、神の怨讐である」とあるように、私たちはサタンの悪行に対して断固、敵愾(てきがい)心を持つべきですが、しかし堕落したことに対する罪責が問われているのは、あくまでも「取って食べるな」という戒めが与えられていたアダムとエバ、すなわち人間です。

ヘブライ語「知る」は性的意味を含む
 私たちはややもすると誘惑してきた天使長が悪いと思いがちですが、しかしそうではありません。『原理講論』の「人間世界に対するサタンの活動」という項目で述べられているように、われわれ人間がサタンに勝利するとはいかなることかといえば、それは「全人類がサタンとの相対基準を完全に断ち切り、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくること」であり、そのために人間自身が「自分の自由意志による責任分担としてみ言葉を探し出し、サタンを自然屈伏させてこそ」実現できるという観点は極めて重要です。

 さて前回、「エバが神を中心にイシュへ向かうのか、それとも狡猾(アルーム)な蛇へ向かうのかによって善か、悪か、が決定される可能性があったという意味において、エバを『善悪を知る木』に比喩したのだといえる」と述べましたが、善悪を知る木の「知る」はヘブライ語でダアット(=名詞)で、動詞ではヤダアといい、その言葉には性的意味が含まれています(参考、創世記41)。

 事実、伝統的なカトリックの解釈では「善悪の知識とは性生活のこと」として一般的に理解されてきました。

 また『旧約聖書略解』(日基教団出版局)は「近代の批評家のうちあるものは『善悪を知る木』は性的関係を象徴すると解する」とグンケルなどの批評学者がそのような見解を取っていることを紹介しています。まさに統一原理が、善悪を知る木の実を取って食べたこと(創世記36)を性的に解釈したのは、知る(=ヤダア)という原語の意味から見ても妥当な解釈であるといえます。

 ただし統一原理は、性欲や性そのものが罪であるといっているのではありません。あくまでもエバが責任を果たせずに、天使長と不倫なる性関係を結んだこと、および神の祝福を待たずして「時ならぬ時に」エバとアダムが性関係を結んだことという、いわゆる神の戒めに対する不従順こそが罪であったと見ています。

善の果か悪の果か、エバの意志で決定
 ところで、浅見定雄氏は「エバが自分自身を象徴する木から取って食べたということは、エバが自分自身とセックスしたことになり、ルーシェルとの性交にはならない。マスターベーションである」などと批判しています。この批判は『原理講論』を詳細に読んでいないために起こっている批判であるといえます。

 統一原理は、エバが善悪を知る「木」を食べた、といって論じているのではなく、善悪の「果」を取って食べた、というのは何を意味するのかという観点で論じているのです。

 故に『原理講論』では「善悪を知る木が、完成したエバを比喩したものである…では善悪の果とは何をいうのであろうか。すなわち、それはエバの愛を意味するのである。…エバは…その愛をもって善の実を実らせることも、また悪の実を実らせることもできる成長期間を通過して、完成されるように創造されていたのであった。それゆえに、その愛を善悪の果といい、またその人間を善悪を知る木といったのである。…エバが善悪の果を取って食べたということは、彼女がサタン(天使)を中心とした愛によって、互いに血縁関係を結んだということを意味する」(103ページ)というように、善悪を知る「木」と善悪の「果」とを明確に分けながら論じているという事実をまず知らなければなりません。

 ここで重要なポイントは、「エバの愛」こそが、善の実か、悪の実か、のいずれかの実を実らせるようになっているという点です。愛の実を実らせることはエバ一人でできることではありません。

 さらに、いずれの実を実らせるのかという分岐点は、エバの主体的、能動的意志において決定されることだったのであり、それは天使長に任せられていた責任分担ではありません。ですからエバ自身がどのような方向性をもって意志決定するのかが問われていた問題だったので、聖書は「エバが」実を取って食べたと表現しているのだといえます。もしも「蛇が善悪の木の実を取って食べた」ということになってしまえば、その食べていけないものを「食べた」ことに対する意志決定は、あくまでも蛇すなわち天使長側にあったということになり、結局、堕落の責任(罪責)は蛇にあるということになってしまいます。

 そうなると「取って食べるな」という戒めは、蛇にではなく、あくまでも人間に与えられていた戒め(責任分担)であったということと矛盾することになります。

 結局のところ、浅見定雄氏の批判およびそれに類する批判は、『原理講論』をよく読んでいないために起こった、浅はかな批判であるといえるでしょう。

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 次回は、「創世記第3章[8]堕落による死」をお届けします。