2022.11.13 22:00
創世記第3章[8]
堕落による死
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
『原理講論』に、「我々はこれまで、人間の寿命が切れて、その肉身の土に帰ることが、堕落からきた死であるとばかり考えていた」(213ページ)とあるように、キリスト教は、堕落によって肉体の死がもたらされたと考えてきました。つまり、アダムとエバが「取って食べてはならない。…食べると…死ぬであろう」という神の戒めを破った(創世記3・6)ために、全人類に「死」が入り込んできたのだというのです。
従来の贖罪論にほころび生じる
キリスト教のこのような思想を確立したのがパウロでした。パウロは「罪の支払う報酬は死である」(ロマ書6・23)と述べていますが、この死の概念には肉体の死が含まれています。『聖書辞典』(新教出版社)には、「死がただの自然的生命の終息ではなく、罪の結果生じる神の刑罰である…神にそむいた人間への判決は、『あなたは、ちりだから、ちりに帰る』ということなのである(創3・19)。新約聖書においても、この理解は受け継がれている。『罪の支払う報酬は死である』…この罪と死の関係は広く及ぼされて、『すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』といわれている(ロマ5・12)」と説明されています。
この罪=死という考え方が大前提となって、十字架によって罪が清算されたというキリスト教の贖罪(しょくざい)論が構築されています。
それは、どういうことかと言いますと、アダムとエバが堕落しなかったら、人間は肉体的に永生するはずであったが、罪を犯したためそこに「罪の呪い」が入り込んで老衰し、死ぬようになってしまった。イエスは人類の罪を背負い、罪を贖(あがな)うためにこの世に来られたので、当然堕落によってもたらされた「死」を身代わりに背負って十字架という刑罰を受けていかれた。
つまり、肉体の死をもたらした罪を清算するため無原罪のイエスが十字架にかかって死んでいかれた。そして、イエスは全ての人の復活の「初穂」としてよみがえられた(コリント前15・20)というのです。
これがキリスト教信仰の根底に横たわっている考え方です。
ところが今日、この罪=死という考え方にほころびが生じ始めています。榎十四郎(えのき・としろう)氏は『旧約と新約の矛盾』(ヨルダン社)で、「熊沢義宣(くまざわ・よしのぶ)氏が…『生き者はすべて寿命があるのだから…いつかは死ななくてはならない』と…認めたうえで、『聖書は、人間が死ぬということは、人間が神の前で罪を犯した結果だと述べています』。この文章によると、熊沢氏も人間が寿命が尽きて死ぬことは認めているが、また一方パウロの説も認めている。
『キリストの教え(成人のためのカトリック要理)』には『死は、人にとって自然である』『しかし、死は罪に対する罰でもある』…とある。熊沢氏と同じ言い方である。寿命説と罪説とが矛盾しなければよいのだが、罪がなくても当然死ぬという考えと、罪がなければ死なないという考えは明らかに矛盾するのであって、両方を並べてそのままというわけにはゆくまい」と論じています。
「罪=死」を否定すればキリスト教は崩壊
実は、カトリック教皇庁教理聖省『「終末論に関する若干の問題について」解説』に「もし復活がなければ、信仰のすべての構造は、その基礎から崩れる」とあるように、何を隠そう、罪=死の概念を否定すれば、罪を清算するためイエスは十字架で死に、そして復活されたという教義が崩壊してしまいます。
かと言って「罪の結果、肉体の死が生じた」というのは理性的に受け容れ難い、という葛藤がキリスト教内部に生じてきているのです。
ところで、月本昭男(つきもと・あきお)氏は、創世記2章17節「死ぬであろう」について次のように主張しています。
「『…取って食べる日、あなたは必ず死ぬであろう』…は二通りに理解され得る。この木の実を食べたなら、人は死ぬべき存在となろう、という理解と、この木の実を食べると、即座に(「…日に」)人は死ぬであろう、という理解である。…前者の読み方は、永遠に生くべき創造された人間が…実を食べたため、死ぬべき存在となってしまった…(ロマ書5章12他)を前提にする。しかし、この文を『食べるならば、あなたは死ぬべき存在となる』という風に理解することは、文法的に無理である。まず『…する日/とき』は時を表す副文であって、ヘブライ語では条件節にはなり難い。…この物語において、人間はそもそも不死の存在として創造された、とはどこにも明言されていない…。文法的には、従って、後者の理解が正しい。しかしその場合、禁を犯した人間はその後すぐには死ななかった、という物語上の事実をどう理解すべきか、という問題が残る。…『死』を身体の死とだけ考えるために、このような議論をしなければならないのかもしれない」
ヘブライ語原典を忠実に解釈すれば、肉体の死が堕落によって生じたと解釈するには無理があり、「統一原理」でいう、食べた瞬間に、神の善の主管圏から逸脱(霊的死)したと解釈するのが妥当であると言えます。
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次回は、「創世記第3章[9]霊的堕落の清算」をお届けします。