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創世記第3章[5]
悪の発生

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 キリスト教は「なぜ悪が発生したか?」について明確に解いていません。統一原理では、堕落とは天使と人間の不倫なる愛であったとして、天使と人間の「同時堕落説」を説いているので悪の発生を説明できますが、しかしキリスト教は、天使は天使だけで、人間は人間だけで堕落したと別々に考えているので、悪の発生をうまく説明することができないのです。

 キリスト教は、人間が神の戒めを破り、それが罪の起源になったと考えていますが、ではなぜ、神の造られた善しかない世界に、神に背かせようとする悪なる思いが入り込んだのか、それをうまく説明できません。

 例えば、ヘンリー・シーセン著『組織神学』は「(悪の発生)これは神学の深い神秘のひとつ」「いったい、どのようにしてこの初めの汚れた思いがきよい存在者の心の中に起こったかは分からない」と述べています。

善の規定により悪の概念が発生
 この善悪の問題を、統一原理はどう考えているのでしょうか。『原理講論』は「目的性から見た善と悪」という項目において、「善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉」(118ページ)と定義しています。すなわち善悪とは、キリスト教が従来考えてきたような存在論的概念ではないというのです。キリスト教は悪を存在論的に考えています。

 例えば、サタンは悪の存在の塊なので、最終的にその存在そのものを抹殺すべきだと考えがちです。それに対して統一原理はそうではありません。同じものがただ目的性を変えて現れたのが善悪なので、サタンも本来天使長であったので、その方向性が変わり、本然の位置に戻ったならば、その存在そのものは良いということになります。

 結局、善という性質が存在論的にもともと神様の中にあったのか?と問うと、実は神様が創造のわざをされていなかったときは、善も悪も存在していなかったということをそれは意味しています。

 神様が何もされないでジッとしておられたときは、神様は善を規定していないのでその時点では悪の規定も起きていません。しかし神様がある一つの意志を持って動き出したとします。つまりこんな理想世界にしようと考えてある方向性を持って動き出したとします。

 その場合、例えば私たちがある目的地へ向かって歩き出せばその瞬間にこれから行こうとする「前」に対し「後ろ」という概念が同時に発生するのと同じように、神様がある目的をもって動き出したならば、その神様が向かおうとされる方向性、つまり創造目的がイコール善ということになります。

 その場合、悪は実在していませんが、その善の規定によって同時に悪の概念が「可能性」として発生したとも言えます。つまり、悪は非存在物、非実在でありながらも、善の規定によって「前」に対する「後ろ」ということで発生した、これが目的性から見た善と悪ということです。

人の自由意志から堕落は起きない
 神様が、神の願う意志と方向性を決めた瞬間、その意志に逆らうという方向性が可能性として存在していました。ただそこで重要な点は、人間に付与された自由意志によっては、絶対に堕落は起こらなかったという点です。

 「原理を離れた自由はない」と主張されているように、人間に付与された自由意志によってしては、神の定めた原理軌道を脱線していくことはあり得ませんでした。原理軌道を逸脱させ、それまで存在しなかった悪が発生したのはどこまでも「不倫なる愛の力」であったというのです。

 実際、男女の愛について分析すれば、それはある意味で自由意志の拘束だと言えます。つまり男女の愛とはある意味で不自由になることを意味しています。例えば、父母の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛といった場合、その愛は自由意志を基盤とする自由な行動であって、どのような人をも同じ愛で愛し尽くすことが許されています。

 ところが男女の愛すなわち「夫婦の愛」だけは特別であり、全ての男性を夫のように、あるいは全ての女性を妻のように愛するわけにはいかない愛です。なぜなら、一人の男と一人の女が夫婦になってこそ、初めて神に完全に似た存在となれるのであり、そのペアシステムが破壊されれば、創造本然の家庭的四位基台が崩壊してしまうからです。

 夫婦の愛とは、自分の夫あるいは自分の妻以外の男性や女性と不倫なる情で結ばれてはならないという特別な愛なのです。ですから一組の男女が、神を中心に夫婦として結ばれたなら、その状態は互いの自由意志が神の愛によって拘束された状態なのであり、その情の流れる方向性はただ一つ、自分の夫だけ、妻だけという一方向に固定化されます。それが操(みさお)が堅い、すなわち「烈」ということです。

 アダムとエバが結ばれるとき、神を中心とする男女の愛で結ばれ、自由意志が拘束されるならそれで創造理想の礎が完成されます。ところが、同じ男女の愛がサタンを中心に結実すれば、いけないと分かっていても夫婦以外の人へ情が流れるという不倫の思いによって自由意志が拘束された状態、つまり神の愛の主管圏から逸脱し、偽りの愛によって不自由になったことが堕落です。

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 次回は、「創世記第3章[6]罪責の所在」をお届けします。