2022.08.30 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 231
キリスト教と日本⑩
日本26聖人の殉教
ナビゲーター:石丸 志信
ザビエルが日本にキリスト教の種をまいてから40年後に、時の為政者、豊臣秀吉は伴天連(バテレン)追放令を出し、宣教師の布教活動を制限した。
イエズス会の宣教師たちは平戸に集まり、事の推移を見守るため、表立った布教活動を控えた。ポルトガル船との貿易を継続していた秀吉はそれ以上の追求はしなかった。
宣教師たちは静かに信徒たちの牧会に務めてきたので、この間も信徒は増加している。
しかし1596年の暮れになって、京都で活発な布教活動をしていたフランシスコ会士ペトロ・バプチスタ神父他5人の宣教師と彼らを支援する信徒が捕らえられた。
大阪で布教活動をしたパウロ三木ら3人のイエズス会修道士も加えられ総勢24人となった。
1597年1月3日、牢から引き出された一行は、大八車に載せられ、京都一条戻橋付近で耳を削がれた後、見せしめのため市中引き回しとなった。
殉教の道に立った彼らの口からは賛美と感謝の祈りが絶えることなく、顔からは穏やかな笑みが消えることはなかった。
翌日、京都から伏見を通って堺へ。そして大阪から兵庫へ。さらに山陽道を通って九州長崎へ移送される。
処刑地となる西坂の丘に至る1カ月の旅路は過酷なものであったに違いない。しかし全てを天に委ねた彼らの姿は、行く先々の人々のみならず役人たちまでも驚かせた。
彼らの身の回りの世話をするために同行していた二人の青年が途中で一行に加えられ、最終的に26人が十字架にかけられた。西坂の丘に立てられた26本の十字架に一人ずつ縄で縛られた。
真ん中に6人の宣教師、その両側に日本人信徒ら10人ずつが並んだ。役人が二人ずつ左右の両端から順番にやりで心臓を刺して絶命させていった。1597年2月5日の正午までに全てを終えた。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、1563年以来30年余り日本の布教に尽くしてきた。その間に公の宣教記録を著し、日本の歴史文化を記した貴重な資料を残した。
彼は最晩年、日本で初めて起こった殉教の出来事を調べ、『日本二十六聖人殉教記』にまとめた。これがフロイスにとっても遺作となった。
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