2022.08.23 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 230
キリスト教と日本⑨
ヴァリニャーノの第三次日本巡察
ナビゲーター:石丸 志信
ヴァリニャーノの第三次日本巡察は、1598年8月から1603年1月までの4年半。彼が日本を離れた6年間に状況は大きく変化していた。
豊臣秀吉はフィリピンに入貢(外国人が朝廷に貢ぎ物を持ってくること)を促す使者を派遣した。その返答にフィリピン総督使節として来日したフランシスコ会宣教師ペトロ・バプチスタ一行は、秀吉から京都滞在の許可を得て、都での布教活動を開始した。
ザビエル以来、日本の布教活動はポルトガルの支援を受けたイエズス会が独占していた。
伴天連(バテレン)追放令が出されてからは、彼らは表立った布教活動を自重していた。そこにスペインの支援を受けたフランシスコ会が来日。活発な布教活動に危惧したイエズス会は自重を促したが聞き入れられなかった。それが両修道会の対立の種となった。
1596年に起こった「サン=フェリペ号事件」をきっかけに翌年2月5日、日本26聖人殉教が起こった。
京都で布教活動をしたフランシスコ会宣教師らを中心に26人が長崎で架刑に処せられたのである。その命を下した秀吉も翌年亡くなった。
ヴァリニャーノは、日本が関ケ原の戦いを経て徳川幕府が開かれていくまで、日本における宣教指針を見直し、今後の状況に備えた。
活版印刷機を用いて「キリシタン版」を多く出版したのもこの時期だった。
日本人聖職者の養成にも一層の力を入れた。そして、1601年9月22日、初めて二人の日本人司祭が誕生した。
その一人が平戸出身でかつてザビエルを歓待した木村家の孫、セバスチャン木村である。
この後の10年間、キリシタンの教勢は確かに伸びている。
1603年、ヴァリニャーノは徳川家康が征夷大将軍に任命される直前に日本に別れを告げ、マカオに移って3年後に天に召された。
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