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創世記第1章[8]
本稿連載を嫌う反対牧師

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 統一教会(現・家庭連合)に対する反対活動をしている牧師は、統一教会員を何とか脱会させようとさまざまな「統一原理」批判を行ってきました。彼らは、教会員が監禁された場所へやってきて、「統一原理」の聖書解釈は間違っていると詭弁(きべん)がましいことを言いながら、教会員を離教へと追い込んでいます。

 現在連載している内容にはその反対牧師の批判を時々取り上げながら、その批判がいかにいい加減なものであるのか、また「統一原理」の聖書解釈がいかに優れた内容であるのかについても論じています。

 従って、この連載を一番嫌がっているのは反対牧師であることを理解していただくとともに、せっかく偉大な真理に出会いながらも、反対牧師の詭弁がましい批判に惑わされて離教してしまう教会員が二度と現れてこないよう、この連載内容をご活用してくださることを願ってやみません。

不正確な『講論』引用
 さて、反対牧師の「統一原理」批判には次のようなものがあります。

 「創世記1章に『夕となり、また朝となった』とあるのは、被造物が夜という成長期間を経て、朝になって完成し、初めて創造目的を完成した被造物となるからだという。ところが、アダムとエバが造られた後も、『夕となり、また朝となった。第6日である』(131節)と言われた。すると、アダムとエバは完成したことになり、未完成期において堕落したとする原理の主張と矛盾することになる」と。

 これは「統一原理」への無理解と、聖書を詳細に読み込んでいないために起こった批判です。前々回述べたように「夕となり朝となった」は成長期間を表していますが、しかしそのことは被造物が成長期間を通過し切っていつでも完成した状態となり、成長期間が消滅してしまうことを意味するのではありません。

 反対牧師の『講論』引用は不正確であり、正確には「被造物が夜という成長期間を経て、朝になって完成したのち、初めて創造目的を完成した被造物として、創造理想を実現するための出発をするようになる」(76ページ)とあり、この「…出発をするようになる」という表現に重要な意味が含まれています。

(1)キリスト教は「天地創造」の映画に見るように、アダムとエバは最初から完成した成人(完成品)としてつくられたと考えてきました。それに対し「統一原理」はアダムとエバにも幼・少年期といった成長期間があり、いきなり成人としてつくられたのではないと見ています。

 また、他の被造物もいきなりの完成品としてではなく、ある一定の期間を通過して完成するよう創造されたと見ています。故に人間をはじめとする被造物は、創造目的を完成し得る被造物として存在はしていますが、それぞれの成長期間を通過することで創造理想を実現するようになっているのです。そのことを「創造理想を実現するための出発をするようになる」と表現したと言えるでしょう。

成長期間の経過が即完成ではない
(2)創世記1章を注意深く読むと、2日目は「夕となり朝となった」とあっても「良し」と語られていないことに気付きます。その代わり3日目に「良しとされた」が二度も出てきます。

 それについてユダヤのラビ、トケイヤー氏は「ユダヤ人は火曜日を最も幸運な日だと信じている。というのは、聖書で3日目に『神が良しとされた』と2回言っているからだ。昔のラビたちは、3日目に『良しとされた』を2回言った理由を、次のように考えて理解した。2日目に造られたものはまだ完成していなかった。3日目になってできたので、『神は良し』とされたと言った」と説明しています。

 この2日目の記述から言えることは、「夕となり朝となった」は成長期間を確かに表してはいるが、そのことは即、被造物が完成した状態(完成品)となってしまうことを意味するのではないということです。

 故に「成長期間がある」ことと、それを通過して「創造理想を実現する」こととは、明確に区別すべき概念であることを私たちに示唆しようと、神様はわざわざ2日目の記述をそのようにしておかれたのかもしれません。ちなみに、良しはヘブライ語でトヴといい「悪に対して善」という意味合いの言葉です。

 故に文語訳聖書の「善し」は、原語の意味をよく表現しています。神様はまさに善の対象として被造世界を造られたのです。

(3)創世記では、神様は6日間の天地創造を終わって第7日に休まれたとあります。この聖句から神様は全ての創造の業を完成し、今は安息しておられるかのように思いがちです。ところがヨハネ伝5章を読むとイエス様はそう考えておられなかったことが分かります。

 安息日に癒やしの業をされたイエス様をユダヤ人が責めた時、イエス様は「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と答えられました。このみ言はアダムとエバの堕落によって神様はいまだ創造の業を終えておらず、従って安息日を迎えていないことを示唆していると言えます。

 故に6日目に「はなはだ良かった。夕となり、また朝となった」とあっても、即アダムとエバが創造理想を実現し、完成したとは言えないのです。

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 次回は、「創世記第1章[9]人間と天使の創造」をお届けします。