2022.06.19 22:00
創世記第1章[6]
被造物の成長期間
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
聖書は、神様の創造が終わるたびに「夕となり、また朝となった。第~日である」と述べています。これについて『原理講論』は、「夕から夜が過ぎて、次の日の朝になれば、第二日であるにもかかわらず、第一日であると言われたのは、被造物が夜という成長期間を経て、朝になって完成したのち、初めて創造目的を完成した被造物として、創造理想を実現するための出発をするようになるからである」(76ページ)と説明しており、それを“被造物の成長期間”を表す聖句として解釈しています。
この『原理講論』の解釈に対して、ある一部の牧師は「ユダヤの祭儀規定では、一日は日没から始まり、次の日没で終るのであって、そのユダヤの常識も知らない間違った解釈だ」と批判しています。『旧約聖書略解』(日本基督教団出版局)も「ユダヤでは一日の始まりは夕である」として、この聖句をユダヤの祭儀規定の立場から説明しています。
果たして「夕となり、また朝となった」は、ユダヤの祭儀規定の立場から述べられた聖句なのでしょうか。
ユダヤの一日は日没から始まると反論
政池仁(まさいけ・じん)氏は、「ユダヤにおいては一日は日没(午後6時)に始まり、次の日の日没に終る。すなわち夜があり昼があって一日であるというのが昔からの解説である。しかし、ここでは果たしてそういう意味で言ったのかどうか問題である。何となれば『夕』及び『朝』をそれぞれ半日の起点と考えるならば『夕となり、また朝となった』では半日しか経過しない。しかし、これをそれぞれ半日の終点と見るならば、ユダヤの暦法に合せるためには『朝となり、夕となった。第一日である』というべきである。その上、夕という観念は昼が終って初めてあるので……『夕となり、また朝となった』というのは普通の暦法のように、昼がすみ、夜がすんで一日経過したというのであろう」と主張しています。
また舟喜信(ふなき・しん)氏も、「昼の終りが夕、夜の終りが朝である。終ることによる次への連絡が中心思想。夕が一日の初めであることを特に意味していない。……夕に終る昼、朝に終る夜のすべてを含んでの一日が考えられている」としています。
その他多くの学者が同様の見解を持っています。事実、ヘブライ語原典では、2~6日までの「第~日である」は連続性をもって、序数日数で述べられてはいますが、初めの一日は「基数」で述べられているため、頭ごなしに、それら全てを、日没から日没までの序数日数として決めつけるには問題があるのです。
「成長期間」はユダヤの伝統的聖書解釈と一致
ヘブライ文学博士であり、ユダヤ教に詳しい手島佑郎(てしま・ゆうろう)氏は、次のように述べています。
「最初は闇で、そこで光をつくった。そしてもう一度、闇が来て光が来る。こういう生活サイクルが彼ら(ユダヤ人)の考え方である。日本人の発想では『光から闇へ』というサイクルになる。夕方になって、朝になったということは創造が継続されていくことを意味している。光から闇になってしまうのでは、生産の手段が停止してしまうことになろう。光から闇という順序では消極的なプロセスだ。闇から光というときに創造的なプロセスになる。そのためユダヤ人たちの儀式は、いつも夕方から始まる……日本人の場合は光から闇で、闇は中断・停止と考える。ああ、もう夜になったから寝なければいけないということになる。もちろん現実には、ユダヤ人の日常の生活は光の中でいとなまれる。しかし一日の作業が終わって、夕となりそして朝となったときに、すでに夕方に仕事を翌日へとバトンタッチしているのである。バトンタッチしたところで一日が終わったと考えるのである……闇の中から光に向かって準備するところに、創造にかかわろうとする者の姿勢がみえる。それを強調したいために『夕となり朝となった』という表現が好まれるのだ。けれども、ユダヤ人の一日はどこから始まるかといえば、やはり朝から夜である。一日というのは光の照っている時間帯で計るからである。時間の概念として一日だけをいう場合は、昼だけで数える」と述べています。
さらに「新しい週が……朝日の中で出発するのであれば、人が朝起きて周囲を見渡すとすべて出来上がった完成品を陽光のなかに認めることになろう。……だが幸いなことに、ユダヤ人にとっては新しい週は土曜日の夜の暗闇、物事が混沌とした未分化の時刻から始まる。明日行動を起こす前に、まずは新しい週にむかって何をなすべきか思索を練る時間がここに与えられている」とも述べています。つまり、闇(混沌)の中から光(完成)に向かって準備するところに、「夕となり朝となった」という本質的意味があるというのです。
(注)一日の出発が朝からと、夕から始まる場合の二通りの数え方が聖書に混在していることは、『旧約新約聖書大事典』(教文館)の「夜と昼」の項でも指摘されていることです(1264ページ)。
なお、明治末期から大正期に日本のキリスト教宣教に尽力したパゼット・ウィルクスも、「夕あり朝ありと言えば『これ…夜なり』と言うべきであるのに、かく言わずして『これ…日なり』と言っている。これは…(1日24時間のことではなく)時の一時期を意味しているからであるに相違ない。すなわち、(創造の)その時期の始めを夕のほの暗きにたとえ、その終りの発達と完成を、朝の光明に比して、かく言うたのであろう」としています。
以上見てきたように夕に続く夜を“成長期間”として捉える「統一原理」の解釈は、ユダヤの伝統を踏まえた優れた解釈であり、問題ないと言えます。
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次回は、「創世記第1章[7]三大祝福」をお届けします。