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創世記第1章[7]
三大祝福

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 「統一原理」は、創世記128節の「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を…治めよ」の聖句を、三大祝福すなわち「個性完成、子女繁殖、万物主管」として解釈しています。

 この「統一原理」の解釈に対し、ある一部の牧師は「第一祝福の個性完成は、神のみ旨を知り、行うことができるまでに成長することで、『生めよ』を根拠にしている。しかしこの言葉は、創世記122節において、鳥や魚に対しても言われている言葉であり、産めよであって、個性完成を意味するものではない」と批判しています。

 果たして「生めよ」を個性完成として解釈するのは間違っているのでしょうか。

「生めよ」はペルー「よく実れ」の意味
 実は、生めよと日本語に翻訳された言葉はヘブライ語でペルーといい、名尾耕作(なお・こうさく)著『旧約聖書ヘブル語大辞典』(聖文舎)は、その意味を「よく実を結ぶ、繁殖する、増える、生む、多く実らす」と説明しています(1127ページ)。すなわちペルーとは、植物がたわわに実を実らせることを意味しており、またその類語のペリーは、植物の果実のことで、天地創造3日目の果樹の「実」に、ペリーの語が当てられています。つまり「生めよ」には「よく実れ」という意味が含まれているのです。

 ヘブライ文学博士であり、ユダヤ教に詳しい手島佑郎(てしま・ゆうろう)氏は次のように述べています。「ヘブライ語で『生めよ』とは『プルー(ペルー)』。この言葉を言い換えれば『実れ』。ただ生むだけではなくて実らなければならない。実った果実のことは『プリー(ペリー)』という。ただの生みっ放しではなくて『実る』ことに意味があるわけだ。『ふえよ』は『ルブー』。別な翻訳をすると『大いなれ』となる。ただ増えるだけでなく、大きくなることを意味し、数量のみでなくサイズも問題にされている。しかも、それで終わらずに『地に満ちよ(ミルー)』と言う。文字通り『充満する』という意味である。だから他人を祝福するならば、『貴方がしていることのすべてが実るように、またそれが単に実るだけでなく大きく実って、しかもあたり一面を被うまでに充溢(じゅういつ)するように』と言う。これが聖書の、そしてユダヤ教の祝福の原点である…自分たちの行為が結実するまで徹底的に努力しなければならないとの自覚を促すことなのだ。これは単に子孫が繁栄するといった意味だけではない。自分の仕事が本当に成功し充実するかを問うている」と。

 確かに、ペルーは韓国語で「生育せよ」、英語では「Be fruitful」と訳されています。さらにヘブライ語原典では、その語根であるパラの用例として、創世記4922節「ヨセフは実を結ぶ若木」、詩篇1283節「多くの実を結ぶぶどうの木」、イザヤ書111節「若枝が生えて実を結び」などがあり、単なる「産む」「繁殖」の意味ではないことを裏づけています。

個性完成の後は完熟に向かう
 では、創世記122節で、鳥や魚にも同じ「生めよ」と言われていることについては、どう理解すべきでしょうか。前述した牧師の批判、「個性完成は、……『生めよ』を根拠にしている。しかしこの言葉は……鳥や魚に対しても言われている」は、「統一原理」に対する“無理解ぶり”を表すものに過ぎません。

 『原理講論』は、個性完成を「心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつく(る)」(66ページ)ことと説明しています。つまり神に似せて造られた人間においては、神を中心に心と体が合性一体化(心身統一)することによって「神のみ旨を知り、行うことができるまでに成長すること」であり、万物においては、万物の造られた目的に従って生育し「万物らしくなれ」という意味にほかなりません。
 個性完成とは、神を中心として個体的四位基台を造ることです。

 なお、神様は「生めよ」という祝福を、鳥や魚の場合と違って、人間には直接語りかけて祝福しており、それは“神のかたち”に造られた人間がその意図に従って「生めよ」ということであり、人間が「神のみ旨を知り、行うことのできる」神の相対圏(実子)になってほしいと願う、神の心情が込められてのことと言えるでしょう。

 ちなみに、個性完成とは、申し分のない人格者として“成熟し切る”ことだと勘違いしやすいのですが、そうではありません。金栄輝・著『原理教本』は、「人間の生心が完成すれば、その時が…男性と女性が、神の祝福によって夫婦として結婚することのできる時である。結婚することによって、理想実現の新しい生涯の出発がなされ、心情は完熟に向かってさらに成長する」(134ページ)と説明しており、個性完成のあとで、夫婦としてさらに人格を完熟させていくというのです。このことは手島佑郎氏の述べる、「『生めよ』は実ることであり、『ふえよ』は『大いなれ』ということで、さらに『大きくなる』ことを意味する」という説明と相通じるところがあり、興味深いものがあります。

 以上見てきたように、「生めよ」を個性完成として解釈することは、ユダヤの伝統を踏まえた優れた解釈であり、問題ないと言えます。

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 次回は、「創世記第1章[8]本稿連載を嫌う反対牧師」をお届けします。