2022.07.10 22:00
創世記第1章[9]
人間と天使の創造
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
創世記1章26節の「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り…』」の「われわれ」について、『原理講論』はそれを「人間よりも先に創造されていた天使たちを考慮において、それらを含めた立場から言われたみ言であった」(106ページ)と解釈しています。これに対し、ある反対牧師は、「われわれ」とは三位一体の立場から言われたものであって、『原理講論』の解釈は間違いだと批判しています。
「われわれ」は神様と天使を指す
確かに「われわれ」をどう解釈するかを巡って、いろいろな説があり、初代教父の時代から今日に至るまで、さまざまな神学者がそれを三位一体の立場から解釈してきたことは事実です。しかし今日ではこの説は支持されなくなってきています。
政池仁(まさいけ・じん)氏は次のように主張しています。「神が『われわれ』と複数形を使用し給うたのは…多神教時代の言葉がそのまま残ったのであろうという説もあるが、『神はまた言われた』の『言う』が単数形であるから、それは首肯(しゅこう)しがたい。
また創世記1章を書いたP記者は祭司であって唯一神を厳格に固持していた者であるから、多神教の言葉を平気で使用するはずはない。神の尊厳を表わすためという説もここではあたらない。教会では近くまで、これは神の三位一体を意味すると解せられてきた。しかし三位一体の思想は旧約聖書のどこにもなく、これは新約において初めて出てくるものであるから、P記者がそれを知っていたと解することはできないので、この説は今は影をひそめた。
そこで一番もっともらしいのは古いユダヤ教時代の解釈である。それによれば、これは神が天使たちに語り給うたというのである。最も敬虔(けいけん)なイスラエル人の考えでは、神は唯一であるが孤独ではない。列王紀上22章19節に『ヤハウェが玉座にすわり、天の万軍がそのかたわらに、左右に立って』とあり、イザヤ書6章には天使セラピムが翼をもって顔と足とをおおいつつ神の玉座に侍していることがしるされ、ヨブ記1章6節にも『ある日、神の子たちが来て、ヤハウェの前に立った』とある。なおヨブ記38章7節には地の基が置かれた時『神の子たちはみな喜び呼ばわった』とある。天地創造の際、天使たちは神をとり囲んでその御業(みわざ)を眺めていたのである。そして一つのことがなるごとに天において大喝采があったのである。そして今やそのお仕事がクライマックスに達して、最後の御業なる人間を造ろうとするにあたり、神は天使たちを顧み『われわれのかたちに人を造ろう』と言われたのである。すなわち人は神や天使に似せて造られたものである」と。
フォン・ラートや関根正雄らの著名な学者たちも、この天使を含めて語ったという説を支持しています。
「かたどり、似せて」は神性と神相を暗示
(注)ちなみに天使について、反対牧師は「天使も神の被造物だが、聖書では男性名詞であり女性天使はいない。ゆえに陽陰の二性性相は間違い」と批判しています。
確かに天使はヘブライ語でマルアフ、男性名詞で、ギリシャ語でもホ・アンゲロスで男性名詞となっています。しかし男性という概念は、女性という概念があって初めて成り立つものである以上、いくら天使が男性名詞になっているからといって、即「二性性相ではない」と断言はできません。
かつてユダヤ教で盛んに読まれていた『第一エノク書』には、「おまえたち(天使)は、もとは霊的存在、いつの世になっても死ぬことのない永生にあずかっている存在だった。それゆえに、おまえたちには女をあてがわなかったのだ」とあります。
『ユダの手紙』にも引用されたこのエノク書は、間違いなく男性としての天使に対しその相対の「女」という概念を語っており、ただ何らかの神様の意図があって「女をあてがっていない」と考えられます。事実、文鮮明(ムン・ソンミョン)師は「人間が責任分担を果たして、創造理想が実現すれば、そのときに天使にも相対者(女性)が与えられるようになっている」と語っておられます。
さて「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう…」(新共同訳)の「かたどり」は、ヘブライ語でツェレム、「似せて」はデムートで、違う語が当てられています。この点についても歴史的にさまざま論じられてきましたが、「統一思想」から見たとき興味深いものがあります。
というのは、神様の属性は、心情・ロゴス・知情意などの性質である「神性」と、性相・形状、陽性・陰性のかたちの要素である「神相」に分かれます。人間以外の被造物は、神様の「象徴的個性真理体」で、かたちの要素である神相しか現れていないのに対し、人間は神様の「形象的個性真理体」で、神相のみならず、神様の見えない本質である神性も似せて造られた存在であると見ます。
神相が原理として付与されているのに対し、神性はそこに人間の責任分担が加わって完全に現れるものです。ヘブライ語の二つの語の使用は、神性と神相を暗示すると言えるでしょう。そして人間における「神のかたち」とは、より神性という側面にこそ重要な意味があると言えます。
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次回は、「創世記第1章[10]神の二性性相」をお届けします。