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創世記第1章[10]
神の二性性相

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 キリスト教思想と「統一原理」を比較すると、神観における最も大きな相違点は、「統一原理」が、神を本陽性と本陰性の二性性相の中和的主体としてとらえている点にあります。

 キリスト教は、基本的に陽・陰の概念を受容しません。神を「父なる神」(ガラテヤ人への手紙13節、他)と呼んでいるので、あえて言うならば陽性と見ることもできますが、しかしそれは母に対する父ということで述べている概念ではないので、厳密に言うと陽・陰の概念を意識しない用い方をしています。

 パウロ書簡に「男は、神のかたちであり」(コリント人への第一の手紙117節)とあるように、キリスト教は伝統的に神を男性的概念としてのみ捉えてきました。

キリスト教になかった陽陰の概念
 この陽陰の思想は東洋において論じられ、真理として受容されてきましたが、しかしキリスト教(西洋)においては歴史的にそういう概念すら論じられてこなかったというのが実情です。従って「統一原理」が、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実に、全てのものは陽・陰の二性性相の相対的関係を結ぶことによって存在していると主張すると、反対牧師らは、即座にそれに拒絶反応を示し、陽陰の概念を激しく攻撃してしまうことになるのです。

(注)ただしイエス様の死後間もない初代教会時代においては、この陽・陰の概念が大いに論じられていました。実は、異端として退けられたグノーシス主義者の一部に、「父母なる神」を主張するグループがいました。彼らはイエス様のみ言集とされる「トマスによる福音書」ほか「ピリポによる福音書」などを根拠に神は「男性と女性の両者であられるに違いない」と主張していました。

 彼らは当然のこと、女性をも教会指導者として立てましたが、正統派(カトリック)の流れであるパウロ主義者らは「父なる神」および堕落論の解釈の問題にからめて、女性を教会指導者にすべきでないと主張(参考:テモテへの第一の手紙21114節)、彼らを激しく攻撃しました。

 この抗争の中で「父母なる神」を主張するグループは異端として断罪され、やがて歴史から消滅したのでした(E・ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』白水社、102132ページ)。

男女の二性は神様のかたちの現れ
 さて、創世記127節「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」は、「統一原理」によれば陽陰の二性性相を裏づける聖句として解釈します。

 ところがキリスト教では、一般的に「神のかたちに創造し」の部分と、「男と女とに創造された」とを切り離し、神のかたち(属性)として「男と女がある」という解釈の仕方をしません。この解釈の問題について、どう考えるべきでしょうか。

(注)ちなみに『新聖書注解・旧約1』には、「カール・バルトはボンヘッファーなどの考え方に従い、男と女に創造されたことを、神のかたちに創造されたことの内容と理解する。神性には『われ』と『なんじ』と明らかに区別されるべき立場が内在している。人間のうちの男と女、夫と妻の関係は、神に内在する『われ』『なんじ』に相当するもので、類比の関係がここにあると言う」(81ページ)と説明されています。

 カール・バルトは『教会教義学』の中で、創世記218節を「人がひとりでいるのは良くない。彼に差し向かいである助け手を造ろう」と理解し、神のかたちとは、この「差し向かい」のことであると考えています。

 そこで注目すべきは127節の「創造」という言葉についてです。ヘブライ語には創造するという言葉として「バラー」「アーサー」「ヤツァル」などがあります。バラーは、神の創造に限って用いられる特別な動詞であり、人間がものを造る場合はアーサーが用いられます。

 また27節で使用されているヤツァルは、陶器師が粘土で形作る場合に用いられる語です。実は、127節の文章にはバラー(創造)が3回も使用されています。このバラーの言葉の持つ重みについて、手島佑郎(てしま・ゆうろう)氏は次のように述べています。

 「(天地創造5日目にもバラーが使用されているのは)すごい感動である。なぜか? 第1節で『はじめに神は天と地とを創造された』とバラーという言葉が出てきた。天地創造のときにしか使わないバラーという言葉が、海の大いなる獣と、水に群がる全ての動く生き物と鳥の創造に適用されている」と。

 ましてや人間の創造に、動物の創造のとき以上に、3回もバラーが繰り返し使用されているのは、そこに特別な意味が込められてのことだと考えざるを得ません。政池仁(まさいけ・じん)氏も「(127節に)バラーという語が使用されている。しかも『創造(バラー)し』『創造(バラー)し』『創造(バラー)し』と3度重ねて、いとも荘重である」と感慨深げに述べています。

 この3回連続使用されたバラーの重要性から見た場合、「神のかたち」とそれに続く「男女」の概念に、思想的連続性があると見た方がより妥当でしょう。つまり男女は神のかたちの現れだと言えます。

 次回はユダヤ教をも含めて、男女の概念の重要性について述べたいと思います。

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 次回は、「創世記第1章[11]家庭的四位基台」をお届けします。