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創世記第1章[11]
家庭的四位基台

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 キリスト教では、神を男性と見ており、基本的に男・女の概念を“神のかたちとは見なしません。むしろ天国が来れば、そこでは男女の性別が無くなってしまうとさえ考えています。

 例えば、日本基督教団議長を務めた鈴木正久(すずき・まさひさ)氏は「性愛と結婚は、死で限定されたこの世の生活要素である。ことに性的関係はこの世だけの要素である。性愛は、終末的には無くなる」と主張していますし、ファンダメンタル(根本主義)の立場に立つ高木慶太(たかぎ・けいた)氏も「(天国では)男性・女性の区別がなくなるばかりでなく、地上での結婚関係も解消する」としています。

 キリスト教では、天国へは男一人でも、女一人でも入れると考えており、従って、男・女であるということに対してあまり積極的な評価をしていないと言えます。終末的に無くなるのならば、なぜ神様はわざわざ人間を最初から男と女に創造されたのか? その疑問についてまずキリスト教は答えを出しておくべきではないでしょうか。

ユダヤ教は結婚重視の伝統
 一方、ユダヤ教では、神の属性には「父性」と「母性」の両方があると考えられており、プニナ・ナベ・レビンソンは次のように述べています。

 「神性はまた『女性的』でもある。聖書は神の母性愛について語っている(イザヤ書4915節)。援助、哀れみというヘブライ語の『rachamimは、rechem(母胎)に由来する。ユダヤの神秘家は世界における神の女性的側面について詳細に語る。これは信心深い人々が独身生活を拒否する根拠であった。すなわち男性であることのみでは不十分と見なされた」のであると。

 従って、独身の人間は“不完全な存在”と見なされており、男女が結婚することによってだけ、初めて完全なものになると考えられています。ユダヤ教では、古くから結婚を重視しており、それについてダニエル=ロプスはその著書『イエス時代の日常生活』の中で、「イスラエルは早婚であった。多くのラビは、男は18歳が結婚に最適であると考えた。もっとも寛容な教師は、妻をめとるのは24歳まで待ってよいとした。しかしもっとも厳格なものは、『主は…20歳になってまだ結婚しない人を呪いたもう』とさえ断言した」と述べています。

 以上のようにユダヤ教では、男女を神のかたちの現れと見なしており、結婚を重要視するその伝統は、「統一原理」の観点から見て、高く評価できます。

男女は創造目的実現の不可欠の概念
 「統一原理」においては、男女の概念の重要性を説いています。では、なぜ男女の概念の重要性を説いているのか? 大きく見て次のような理由が挙げられます。

1「統一原理」では、「天国は家庭を基盤として成就される」と見ており、従って、男女が結婚し、家庭を完成しなければ天国には入れないと考えているから。

2人間の堕落がアダム・エバという夫婦を単位として起こったので、それを蕩減復帰するには夫婦単位でなければならないと考えている。ゆえに救済方法には、結婚が重要要素として関わってくると見ているから。

3ユダヤ教と同様、男女が合わさってこそ、初めて神の完全な似姿になれると考えているから。

4父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛という「四大心情圏」は、家庭的な四位基台を基盤として初めて顕現するものである。すなわち父母、夫婦という概念は男女というものが前提となって初めて成り立つ概念であり、また兄弟姉妹、子女という概念も厳密には男女というものが前提となって成立するものであるから。

 文鮮明(ムン・ソンミョン)先生は、どんなに素晴らしい男性であっても、どんなに美しい女性であっても、彼らが結婚しないでいるならばそれは「半品」であり、男女の二人が結婚してこそ初めて「完品」になれると語っておられます。

 それは、ユダヤ教の「性は神が望んだ人間のあり方の不可避的な一側面であり、それ故、独身の人間は不完全と見なされる」という考え方と類似している思想だと言えます。

 中でも、「統一原理」において最重視すべきポイントがあります。それは男女という概念の中に、神の究極的な創造目的があると見ている点です。確かに、男女ということそれ自体が「神のかたちの現れ」ではありますが、しかしその男女という主体と対象の関係がなければ「家庭的四位基台」の造成は不可能です。

 従って、男女であるということは神様の創造目的を実現していくために必要不可欠な役割を果たしている概念なのです。つまり男女とは、ただ単に神のかたちの現れのみならず、もっと深いところに本質的な理由があるのです。

 なお、創世記128節をヘブライ語原典で読むと、そこにラヘムという語が出てきます。ラヘムとは「彼らに」という意味で、日本語訳の聖書では省略されていますが、神様は祝福を与えるときに、人間にだけは直接語りかけて祝福しています。その祝福が「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という内容であった点にも、男女であるという概念の重要性がそこに込められていたと考えるべきでしょう。

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 次回は、「創世記第1章[12]神様の創造目的」をお届けします。