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預言 26
強烈な出会い

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

26 強烈な出会い

 智敏(ジミン)は目を閉じた。こんな偶然があるのか。

 ソフィアを捜しに来たこの地に、どうしてオシポーヴィチがいるのだ。しかし、そんな疑問は瞬く間に消え去った。あらゆる雑念、ソフィアという名前すら消えていた。

 ゲンナージィ・オシポーヴィチ、このフルネームを聞いた途端、熱く充血して破裂しそうだった目も、頭の中で響く虫の羽音のような雑音も、狂ったように高鳴る心臓も、あっという間に沈静化した。

 “ああ!”

 これまで6年もの間、何千回、何万回と想像してきた状況が、この瞬間、すべての雑念を吹き飛ばし、煮えたぎる感情を完全に冷却した。

 智敏は嘘(うそ)のように落ち着いた声で、彼の名前を確認するかのようにつぶやいた。

 「ゲンナージィ・オシポーヴィチ」

 「ああ、そうだ」

 智敏は再び椅子に座った。夫婦は、彼の激しい感情の変化に驚いて尋ねた。

 「どうしたんだ? 私を知っているのか?」

 智敏は緊張で張り裂けそうになる胸を押さえつけながら、何千回も悩んできたことを、またしても思い悩んでいた。

 懐にしまってある拳銃を取り出し、今すぐ撃つべきか。

 拳銃を構えて脅した後に、その罪名を大声で叫んでから撃つべきか。

 こいつの弁明と謝罪を聞いた後に撃つべきか。

 智絢(ジヒョン)の名を叫びながら撃つべきか。

 家族も撃つのか。

 冷酷なやり方だが、この男が自分にしたように、家族を撃って、こいつは生かしておくか。

 “急ぐ必要はない”

 智敏は気づかれないほど小さくうなずいた。

 生きる目的がすべて果たされるこの瞬間は、想像していたあらゆる状況よりも、ずっと余裕があった。

 そのすべてをしてもよい。事の顛末(てんまつ)を聞き、謝罪させ、これが智絢の復讐(ふくしゅう)であることを理解させた上で、相手の態度を見てから、この家族の運命を決定する。

 状況はすべて、智敏の味方をしていた。ついにやって来たのだ。最高に素晴らしい復讐を遂げるチャンスが。

 「オシポーヴィチ、実におかしな偶然ですね」

 オシポーヴィチは突然落ち着きを取り戻した智敏の態度に警戒の色を浮かべ、彼をじっと見つめた。

 「お前は何者だ?」

 「韓国人。あんたの名前を一度も忘れたことのない韓国人だ」

 短い沈黙の後、今度はオシポーヴィチの表情が凍りついた。

 彼は困惑に満ちた顔で大きく息をし、妻と子どもに、奥へ入っているように目で合図した。智敏は彼らを冷淡な目つきでにらんだものの、妻と息子がその場を去ることについて、口を挟まなかった。

 実際に家族まで傷つけるほど、智敏は残酷ではなかった。

 しかし、オシポーヴィチの一挙手一投足には神経を尖らせ、決して目を離さなかった。少しでもおかしな挙動をしたら、すぐに取り押さえるためだった。

 家族が出て行った後、しばらく何も言わずに空を見上げて考え込んでいたオシポーヴィチは、独りで何度かうなずいた後、智敏を寂しげな目で見つめた。

 「聞きたいことがあるんだろう?」

 「もちろん。すべてを話してもらおう」

 智敏の声色はとげとげしかったが、オシポーヴィチは当時のことを振り返りながら、ゆっくり話し始めた。

 「私は基地司令官の命令に背いて、大韓航空007便の前方ぎりぎりにスホーイの機体を近づけた。上層部は、領空を侵犯して軍事的に敏感な地域に接近する007便に激昂(げきこう)していたから、形式的な警告をした後にすぐ撃墜しろ、という命令を私に下した」

 すべての罪を上層部にかぶせようというんだな。

 智敏は腹の中で冷笑した。

 「あの機体には旅客機であることを示す点滅灯が灯(とも)っていたし、航法灯も点(つ)いていたが、私はそれを見て、アメリカの偵察機が偽装していると思った。警告射撃をしたが、その中に曳光(えいこう)弾が含まれていないことは分かっていた。警告射撃は全部で4回行ったが、旅客機のパイロットたちは最後まで気づかなかった。曳光弾がないのだから……。それで最後の手段として、私のスホーイを近づけて航路を塞ごうとした。向こうが私に気づくようにね」

 「大韓航空007便は、誰が見ても旅客機だと分かるように、航法灯はもちろん、点滅灯も点いていたのに、あんたは愚かにもそれを偽装と判断したんだな」

 オシポーヴィチは小さくうなずいた。

 しばらく沈黙した彼は、再び口を開いた。

 「基地からは、即刻撃墜しろという命令ばかりが繰り返された。その指示に何度かは抵抗したが、最終的には従うしかなかった。あのまま飛行機を見逃していたら、私がルビャンカに送られるのはもちろん、妻や息子まで一巻の終わりだったからな。ソ連で上層部の命令に逆らうことはすなわち、死を意味する」

 智敏はオシポーヴィチに対する憎悪がさらに強まるのを感じた。

 どうしようもなかっただの、上層部の命令に従うしかない軍人であるだのといった弁明をするだろうことは、あらかじめ予想していた。

 それでも、個人的な謝罪を一言でもしていたら。喉元に銃口を突きつける前に心からの謝罪を一言でもしていたら、楽に逝かせてやろうと思っていたのに。

 「なるほど。全面的に上層部の命令だったってことか。あんたは従うしかなかったよな」

 嘲笑の混じった声で、智敏は言った。

 オシポーヴィチが智敏の思いを知ってか知らずか、立ち上がって近づいてきた。

 いつ、どのように撃つか。それだけを考えていた智敏の前で、オシポーヴィチが突然、床に膝をつき、うなだれたまま告げた。

 「いや、違う」

 「違うだと?」

 「違ったんだ。そうしてはいけなかった。私の身に何が起きようと、命を失うことになろうとも、あの赤いボタンを押してはいけなかったんだ」

 「……」

 「妻を、息子を道端に捨て置くことはできないと思ってボタンを押してしまったが、あの日以来、息子の顔を見るたびに、あの白い顔をなでるたびに、私は顔では笑っていても、心の中では涙を流していた。どれほど多くの子どもたちが、その母親、父親たちが、私の行動によって死を迎えることになったか。それを思うと、苦しくて気が狂いそうだった」

 喉元に銃口を突きつけてから聞こうとしていた話が、オシポーヴィチの口から先に出てきた。

 「私は数百人もの人を空中で殺した残忍な殺人鬼だ。耐えがたい悔恨の念に苛(さいな)まれ、地獄のような日々を送ってきた。あの記憶が甦(よみがえ)るたびに、何回も、何十回も自分の命を絶とうとした。しかし、そうやって私がこの世を去れば、哀れな妻と息子は地獄に連れて行かれ、思想検証を受けなければならない。到底、そんなことはさせられなかった。だから生きた。良心を押し殺し、この世の誰もが、あの状況ではああするしかなかったと自らに言い聞かせた。ルビャンカの恐怖の前では、絶対服従という軍規則の中では、誰でもああしたに違いないと思いながら、生き延びてきた」

 「……」

 「私がもう少し勇気があれば、ルビャンカの恐怖に打ち勝って私の家族の運命を天に任せていれば、あんな悲惨な出来事は起きなかっただろう。自分と家族が生きるために、あんなに多くの人々を犠牲にしてしまった。申し訳ない。犠牲者と遺族の方々に本当に申し訳なかった。どうか韓国の人々に伝えてほしい。この呪われたオシポーヴィチが、彼らを撃ったオシポーヴィチが、このように謝罪していたと」

 オシポーヴィチの目から涙がこぼれ落ちた。

 智敏は、そんなオシポーヴィチをぞっとするような目つきでにらんでいた。

 彼の口から聞こうとしていた謝罪の言葉。しかし実際に耳にしてみると、それはむしろ、決して聞きたくない言葉だった。

 オシポーヴィチの心のこもった謝罪は、耐えがたいほどに不快なだけだった。

 「申し訳ない」

 「やめろ」

 「本当に申し訳なかった」

 「やめろって言ってるだろ!」

 智敏は立ち上がり、大声を張り上げた。

 「俺の妹、智絢を殺しておいて、よくもまあ次から次へと言い訳が出てくるな」

 「申し訳ない」

 「人を殺したのなら、お前だって死ぬべきじゃないのか? こんな所で隠れてのんびり暮らしながら、詫(わ)びを入れたらそれで済むと思ってるのか? 死ね、この野郎! お前なんかブチ殺してやる!」

 智敏はあらん限りの力を込めてオシポーヴィチのあごを蹴り上げた。

 そして、力なく仰向けにひっくり返った彼の顔を踏みつけた。

 さらに馬乗りになると、渾身(こんしん)の力を振り絞って拳を振り下ろした。

 瞬く間に血が飛び散ってつぶれた顔を、智敏は何度も殴りつけながら叫んだ。

 「死ね、お前なんか死ね! 自己憐憫(れんびん)に浸ってないで、かかって来い。俺の妹を殺したその汚らわしい手を固く握って、かかって来い! かかって来いったら!」

 「すまない。私が悪かった」

 智敏は憤懣(ふんまん)やる方ない思いで胸が張り裂けそうだった。

 6年間、ただの一度も忘れたことのない妹の仇(かたき)。

 実際に出会ったそいつは、あまりにも脆(もろ)く、あまりにも哀れな人間だった。

 涙を流しながら、血だらけになるほど殴られながら、自分が間違っていたとひたすら繰り返すこの男の、一体どこが悪党なのか。仇なのか。

 オシポーヴィチというのはもっと卑劣で、自己保身に汲々(きゅうきゅう)としているはずだった。ソ連の英雄として、威張り散らしながら暮らしているべきだった。

 こんな卑屈な姿を見るために、6年間も待ち続けてきたわけではない。

 血も涙もない悪党を、智絢を殺害した悪魔を、ずたずたに引き裂いて殺すために生きてきたのだ。

 「申し訳ない」

 「謝るなって言ってんだ、この野郎! お前に謝る資格なんかねぇ!」

 懐にある拳銃を抜くことなど、到底できなかった。

 こんな男を殺したところで何が変わるというのだ。しかし、智絢は、智絢の復讐は? こいつを撃ち殺さなければ、智絢の無念はどうなる?

 智敏は拳を止めて立ち上がり、オシポーヴィチを見下ろした。

 どうしろというのだ。一体こいつをどうしろと。

 次の瞬間、智敏はわずかでも情にほだされたことを後悔した。

 血まみれになって倒れていたオシポーヴィチが起き上がり、智敏の拳銃を手にしていたのだ。暴れているうちに懐から落ちたようだった。

 拳銃を拾ったオシポーヴィチは、寂しげなほほ笑みを浮かべた。

 彼は立ち上がると、智敏に向けて銃を持った手を伸ばした。

 迫りくる銃口を見つめながら、言葉にできない悔しさで智敏の頭の中が真っ白になる。

 その刹那、オシポーヴィチが銃口を自らに向け、智敏に差し出した。

 彼は智敏の手に銃を握らせながら、裂けて血だらけになった唇でつぶやいた。

 「そのとおりだ。謝罪をしたからといって変わるものなど何もない。もともとこうするつもりだった。自らの手ではできなかったが、いつか韓国人が私を訪ねてきたら、韓国に対する謝罪を託してから、その者の手にこの命を委ねるつもりだった」

 彼は智敏の前で両腕を広げた。

 「撃ちなさい。無念に、哀れにこの世を去った韓国人の恨みを晴らしなさい」

 智敏は発作的にオシポーヴィチの胸ぐらをつかみ、彼の頭に銃口を突きつけた。

 ガチャリと音を立て、火を噴く準備が整った拳銃をあてがったまま、智敏は目を閉じ、あらん限りの声を上げた。

 「智絢!」

 噛(か)みしめた唇からは血がにじみ、銃を持つ手がひどく震えた。

 「ああっ!」

 声を聞いて飛び出してきたオシポーヴィチの妻と息子が悲鳴を上げた。

 オシポーヴィチは目を閉じ、智敏が引き金を引くのを待っている。智敏は何度も引き金に掛けた指先に力を込めた。

 しかし、引くことはできなかった。

 撃たなければ。撃つべきだ。

 頭の中の声はそう叫んだが、ついに指は動かなかった。

 智敏の目からも涙がこぼれ落ちた。こんな復讐が一体どこにある……。

 智敏はオシポーヴィチを押しのけて、その胸ぐらから手を離すと、彼らに背を向けた。

 玄関の戸を破らんばかりに蹴りつけて外に出た智敏は、17年10月村を抜けるまで大声で叫びながら、息を切らせて走り続けた。

 彼は1本の大木の根元に足を引っかけて転び、涙と血と土まみれの姿で起き上がった。そして口を大きく開け、銃口を押し込んだ。

 「智絢!」

 何も残っていなかった。智絢も、智絢の仇も、自分が生きていく理由も、目的も。

 数え切れないほどの残像が頭の中を駆け巡ったが、何も残らずに消えていった。

 “お兄ちゃん、どうして撃てなかったの?”

 智絢の悲鳴にも似た恨みの声が頭の中に響いては消え、智絢の顔もまた消えていった。

 一向に行方がつかめないソフィアの顔も、光のように浮かんでは消えていった。

 もう生きる理由がなかった。何も残っていないこの世界で生きていく理由などなかった。

 恨めしいこの世とはお別れだ。生きた心地がしないこの世の中よ、さらばだ。

 心残りがあるとすれば、ソフィア。もし生きているのなら、ソフィア、君だけはどうか幸せになってくれ。

 智敏は最後に、したたる涙の中でソフィアの顔を思い描いた。ぼんやりとしたその顔を思いながら、智敏は引き金に力を込めた。

 その時、智敏は智絢とソフィアを見た。

 もう来ていたのか。魂になって、やっと会えるんだな。近寄ってきた二人は智敏の頭をなで、抱きしめた。智敏は指に力を込めて引き金を引いた。

 カチリ。

 しかし、弾は発射されなかった。

 火薬の破裂音の代わりに、鉄のぶつかる鈍い音がした。

 不発。

 世界は彼をひと思いに死なせることさえも拒絶した。智敏はもう一度引き金を引いた。

 だが、彼の耳に届いたのは同じ音だった。

 カチリ。

 カチリ。

 引き金を何度引いても、銃口からは何も飛び出さなかった。

 口の中が裂け、血が流れるほど激しく突っ込んでいたその銃を、智敏は獣のような雄叫びを上げて地面に叩(たた)きつけた。

 晴れ渡っていた空はいつしか黒い雲に覆われ、しとしとと雨が降り出した。

 土と血にまみれた智敏は雨に打たれながら起き上がり、とぼとぼと歩き始めた。

 タクシー運転手の待つ丘に向かいながら、智敏は一歩足を進めるたびに、これまでの人生の記憶を葬り去った。

 智絢を消し去り、ソフィアを消し去り、そして、最後の一歩とともにオシポーヴィチを記憶の彼方(かなた)へ消し去ると、智敏は黙って、モスクワのある方角に目を向けた。

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 次回(8月24日)は、「ソ連の心臓」をお届けします。


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