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預言 25
流刑地の住人

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金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

25 流刑地の住人

 智敏(ジミン)はソフィアのためにぶ厚い衣類とビーフジャーキーなどの食料を買い込み、カバンに詰め込んだ。

 「旅行の目的は?」

 「親戚の家を訪問するんです」

 空港の職員は智敏の大きな荷物を見て、根掘り葉掘り聞いてきたが、こっそり紙幣を渡すところりと態度を変え、笑顔で手を振った。

 これが世界で1、2を争う強国の裏の姿だった。数え切れないほどの旅行客と飛行機でごったがえす空港。

 しかし、肝心の旅客機の中には、まるで大学の講堂にある折りたたみ椅子のような座席が並んでいた。戦車と人工衛星を造らせたら世界一だというのに、歯磨き粉は作れないというソ連。

 この矛盾に満ちた国に好意を抱くことなど、智敏には到底できなかった。

 しかし、2時間の飛行を終えて到着したクラスノダールの風景は、智敏の心をほんの少し和らげた。全体が樹木で覆われた緑の都市。黒海の近く、コーカサス山脈沿いにあって、気温もちょうどいい。さわやかな風景が目の前に広がっていた。

 「マイコープに行くのかい? 安くするよ」

 ぼろぼろの自家用車で客引きをしている男たちの喧騒(けんそう)から逃れ、バスに飛び乗った智敏は、窓の外に広がる雄大な景色に目をやった。

 モスクワとは違って、ここでは監視の目がないのだ。智敏は少し解放された気分になり、果てしなく広がる黒土の大平原を見つめ、世界で一番広い国、ソ連の自然を胸に抱いた。

 しかし、マイコープが近づくにつれて彼の心は徐々に重くなり、バスから降りて古い自家用タクシーに乗る頃には、完全に鉛の塊と化していた。

 ソフィアに会ったら何の話をすべきだろう。彼女はどんな姿で待っているのだろう。

 「17年10月村まで行き来するとなると、車は完全におしゃかだよ。道が悪過ぎてね。料金をもっと払ってもらわないと」

 「オーケー、5割増しで払おう」

 「ハラショー!」

 自家用タクシーの運転手は、浮かれて口笛まで吹きながら車を走らせた。

 舗装されていないでこぼこの道を行く間、彼は智敏に、17年10月村に何の用があるのか、誰がそこにいるのかなどをしきりに聞きたがった。

 「あの峠さえ越えれば目的地だよ」

 智敏はそれには応えず、唐突に聞いた。

 「集団農場(コルホーズ)があるんですか? それともただの監獄ですか?」

 「何がだい?」

 「17年10月村ですよ」

 「どういうことだ?」

 「流刑地っていうのは、強制労働をする集団農場なのか、ただの収容所なのかって聞いてるんですよ」

 「流刑地って?」

 「17年10月村は、どんな種類の流刑地なのかと思って」

 「ああ、確かに! 流刑地も同然だな。一生こんな所で農業なんてしてりゃ、流刑囚と変わらない。お客さん、おもしろいことを言うねえ」

 智敏は運転手の反応にどこか違和感を覚えた。

 「ここは……流刑地じゃないんですか?」

 「流刑地だとも。片田舎に埋(うず)もれて一生を終える流刑地。お客さんが言ったんじゃないか」

 「いや、正真正銘の流刑地のことですよ。捕まえた犯罪者に労働をさせる……」

 50代の運転手はバックミラーにちらりと目を走らせ、怪訝(けげん)な顔つきをした。

 「ここに誰が住んでるって?」

 「知り合いです」

 「知り合い? それなのに、流刑地だと思って訪ねてきたのか?」

 「……」

 「ここはどこにでもある平凡な村だよ。ごく稀(まれ)に、ここに住むといって引っ越してくる家族がいることはいるがね。囚人が来る所じゃないよ。そんなことも知らないで、どうやって知り合いを捜すんだ?」

 「何だって? ここは流刑地じゃない? ごく普通の村だっていうんですか?」

 「そうだよ。この村で犯罪なんて、一年、いや百年に一度だって起きやしない。こんな小さな村のどこが流刑地なんだい。せいぜい150人ぐらいしか住んでいないのに」

 智敏は混乱した。

 モスクワで男が言った言葉を何度も思い返してみたが、記憶違いはなかった。マイコープ、17年10月。間違えようのない単語ばかりだった。

 「ここが村の入り口だ」

 50戸ほどの家がまっすぐに並んでいる。

 確かに、一年を通して事件など起きそうにない小さな村だった。智敏は村の入り口付近のあらゆるものにすばやく目を走らせた。

 「あっ!」

 村の入り口に生えたシラカバの木が目に入った瞬間、智敏は声を漏らした。シラカバの根元にトカレフ連発拳銃があると言った男の言葉が頭に浮かんだ。

 流刑地ではないということだけを除けば、男の言うとおりだった。

 “一体どうなっているんだ?”

 呆然(ぼうぜん)と窓の外を見つめる智敏を、運転手がせっついた。

 「どこに止める? 中に入るか?」

 「いや、ここでいいです。それから、帰りは来た時の2倍払うから、あの丘の下で待っててくれませんか」

 「そりゃ願ったりだよ。だが半分は前金としてもらっておかないとな」

 タクシーから降りた智敏は、運転手が車を発進させるのを見届けてから、ゆっくりとシラカバの前に進んだ。

 近くにあった木の枝を拾ってシラカバの根元を掘り返し始めた智敏は、いくらも掘らないうちにずしりとした手応えを感じ、緊張しながら、指先に力を込めた。

 ほどなくして出てきた物体は、男の言っていた拳銃に間違いなかった。

 智敏は周囲をうかがいながらすばやく安全装置を外し、拳銃を懐にしまい込んだ。掘り返した所は足で踏みならして元どおりにし、木の横に座ってじっくりと考えた。

 「良かったじゃないか」

 あまりにもおかしな成り行きだったが、本当にここにソフィアが住んでいるのなら、幸いというしかない。自由の身で、ここで暮らしているのなら、それを喜んで抱きしめてやればいい。

 拳銃があることに違和感を覚えたが、知らない土地を独りで旅する外国人への、セルゲイの父親の配慮だと思えば、それもまた理解できないことではなかった。

 智敏は立ち上がり、村の中に足を踏み入れた。

 36番地という札を見た瞬間、彼の心臓は激しく鼓動を打ち始めた。ドアを叩(たた)いてみようか? 叩いてもいいのだろうか? 智敏は何度も決心とためらいを繰り返した末に、ドアに手をやった。

 またしてもやめようかという思いがよぎったが、既にノックの音は鳴り響いていた。

 「どちら様ですか?」

 ドアの向こうから声が聞こえてくると、張り詰めていた緊張の糸が少し緩んだ。

 聞こえてきたのは男の子の声だった。ドアが少し開き、声の主(ぬし)であろう少年が、隙間から顔を出した。

 少年は意外な訪問客に、驚いたようだった。

 「ここにソフィアはいるかな? ソフィア・アレクセーエヴナ」

 「ソフィア?」

 「ああ」

 「いないよ、そんな人。ここにはいない」

 少年は首を横に振りながら、はっきりと答えた。

 「もしかして隣の家とか、この村にはいないかな?」

 その問いにも少年が首を横に振った途端、一人の男がドアを押し広げ、外に出てきた。

 筋骨たくましい40代の男は、少年の肩を抱いて智敏に目礼をした。

 「誰を捜している?」

 「ソフィア・アレクセーエヴナ。モスクワから来た女性です」

 「そんな人はいませんよ。この家はもちろんのこと、この村のどこにもね」

 「おかしいな。ここにいるって確かに言っていたのに。ここは36番地に間違いないですよね?」

 「間違いありませんよ。でもそんな女性はいません。この4年間、村に引っ越してきた人は一人もいないからね」

 「4年間、引っ越してきた人は誰もいない?」

 「4年前に、私たちが引っ越してきてからは、誰もいないということです。それにしてもお気の毒ですね。その荷物からして、かなり遠い所から来たようですが」

 「いや、それはいいんですが……」

 「とりあえず入って、座ったらどうです。水でも飲みますか?」

 智敏は男の勧めに従って、庭にある古い木のテーブルについた。

 小さな庭だったが、スペースを工夫して作られた花壇には花も咲いていた。少し待っていると、女性がお茶を淹(い)れてきて、智敏と挨拶を交わした。

 身だしなみや顔つきがどこかこの村とは不釣り合いに見えるほど、都会的な女性だった。

 「妻です。これでも元は美人だったんですがね……」

 男は冗談めかして話し出したが、深いため息をつくと、口を閉ざしてしまった。

 「ホホホ、この人について来て、すっかり老け込んでしまったわ」

 女性は冗談を軽く受け流しながら、寂しさを埋めるかのように男の子をぎゅっと抱きしめた。

 「モスクワから来た智敏といいます」

 「こんな田舎にまで人捜しで? ソフィア・アレクセーエヴナと言ったかしら」

 「ええ」

 「ここにいるって、誰かが言ったの?」

 「友人が……」

 「どんな事情があるのか分からないけど、こんな小さな村を知っているというほうが、よっぽど不思議だわ。それはそうと、困ったわね。遠くから来たのに、とんだ無駄足になってしまって」

 心根の優しそうな女性は、同情心にあふれた表情で智敏を見つめた。

 「もしかしたら、ソフィアではなくてほかの名前を名乗っているかもしれない。28歳くらいの女性は、この村に何人いますか?」

 今度は男が首を横に振った。

 「5、6人いることはいるが、全員知り合いですよ。この村の人間はみな、お互いのことをよく知っているから」

 完全に無駄足だった。

 智敏はひどい虚脱感に襲われたが、立ち上がるしかなかった。

 親切な夫婦は二人とも嘘(うそ)をつくような人物には見えなかったし、嘘をつく理由もなかった。

 「申し訳ありませんでした。ありがとうございます」

 「むしろ私たちのほうが申し訳ないくらいよ。これからモスクワに帰るの?」

 「そうするしかありませんから」

 夫婦は智敏のために心を痛め、心配してくれた。

 「どうやって帰るつもり? ここは交通の便がすごく悪いの。しばらく待ってバスに乗ることもできるけど、隣の家に頼んでマイコープまで乗せていってもらう手もあるわ。車を持っているのはお隣さんだけだから。ゲンナージィ、あなたがちょっと行って、頼んでみてくれない?」

 “ゲンナージィ?”

 その瞬間、智敏ははるか彼方(かなた)の、記憶の奈落に落ちたような気がした。

 遠い昔、いつだったか耳にしたようなその言葉。聞き慣れないのに、なぜかよく知っているような言葉。常に隣にいるのに、一度も会ったことがない、そんな言葉だった。

 それは彼の耳の中で、幻聴のようにこだました。

 ゲンナージィ、ゲンナージィ、ゲンナージィ、どこで聞いたのだったろう。

 智敏はめまいで足元をふらつかせながら、発作的に叫んだ。

 「何と言いました? 今、何と言ったんですか!」

 今度は、夫婦が目を丸くして智敏を見つめた。

 「ゲンナージィと言いましたよね? そうですよね? 確かにゲンナージィと言いましたよね?」

 「それはうちの人の名前よ。どうしたの? その名前が、ソフィア・アレクセーエヴナと何か関係があるの?」

 夫人は疑心に満ちた瞳で、智敏と自分の夫を交互に見つめた。智敏は手と唇を震わせながら、再び尋ねた。

 「姓は、姓は何というんですか?」

 「オシポーヴィチ。ゲンナージィ・オシポーヴィチ」

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 次回(8月17日)は、「強烈な出会い」をお届けします。


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