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預言 27
ソ連の心臓

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金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

27 ソ連の心臓

 智敏(ジミン)はモスクワに戻った。

 戻った当日は部屋の中に座っているだけで、微動だにしなかった。

 しかし翌日は睡眠を取り、その翌日は食べ物を探して食事もした。五日目になって、智敏は大学に向かった。

 講義を受け、ほかの学生と短い会話も交わした。ドリロフ教授は変わらずに彼を喜んで迎え、その間、彼が何をしていたのか問いただすこともなかった。すべての生活が元に戻った。

 変わったことがあるとすれば、もともと多くなかった彼の口数が、ますます少なくなったということだ。

 付き合いのあったセルゲイに会うことすらなくなり、時折足を運んでは、腰を下ろしていたロシア文学科のベンチにも行かなくなった。

 人目につくことも、その声が聞こえることも、以前に比べてあからさまに減った。

 あたかも、もはやこの世にはいない存在として生きようとしているかのようだった。

 「ジミー、どこに行ってたんだよ」

 しばらくの間、智敏を避けていたように見えたセルゲイが、会いたかったとでもいうように、智敏の手首をつかんだ。

 「すまなかったな。調べてみたら、到底、他人を通して伝えられる内容じゃなかったものだから、自分で伝えようとしたんだが……。でもその間にお前がいなくなっちまってな。一体どこに行ってたんだ?」

 既に予想していたとおり、智敏を17年10月村に送ったのはセルゲイではなかった。

 近況を聞き終えた彼は、智敏の顔色をうかがい、注意深く、沈痛な口調で話を切り出した。

 「ソフィアは死んだよ。それも5年も前に、シベリアの流刑地で。栄養失調だったそうだ」

 いきり立ち、泣き叫ぶかと思われたが、智敏はさも他人事のようにうなずくだけだった。

 「そうか。それは気の毒にな」

 「大丈夫か? あれほど捜していたじゃないか」

 「そうじゃないかとは思っていた。お前の気持ちはありがたいが、これ以上は気を遣わないでくれ」

 「本当に大丈夫なのか? あんなに必死だったのに」

 別人かと思うほどの変わりようだった。

 むしろセルゲイのほうが悲しげな表情を浮かべていた。そんなセルゲイの肩を叩(たた)き、智敏はその場を離れた。

 大学を出て電車に乗った智敏は、クレムリンの近くをぶらついた。

 何時間も歩き回った彼は、モスクヴァレツキー橋の欄干に腰掛け、穏やかな水面を見つめながら時間を過ごした。

 通りすがりの若い男が理由もなく難癖をつけてきても、いつの間に来たのか、女が彼のすぐ横で欄干にもたれて座っていても、彼は視線すら合わせようとしなかった。

 流れる川のさざ波を見つめるのが人生のすべてであるかのように、何に対しても関心を示さない石像のように、ただ座っていた。

 「彼に会ったのね」

 横に座った女は尹(ユン)だった。彼女はすべてを見守ってきたかのような口調で言った。

 「ソ連では、国民はみな、ただの部品でしかない。どこの誰に対しても責任は問えないわ」

 尹は頭(かぶり)を振った。

 まるで、ソ連という国をようやく理解できたかとでもいうように、彼女は乾いた声でつぶやいた。

 「どんな知識人でも、良心を持った人間でも、正義感にあふれた人でも、殺せという指示を受けてしまった以上、相手が何千人でもやるしかないのよ。ソ連という国にいる限りはね」

 「……」

 「ともかく、生きて再会できてうれしいわ。オシポーヴィチを殺す代償として、あなたも命を差し出すようなことにならなくて何よりだわ」

 尹はそう言いながら、手に持っていたものを差し出した。

 「受け取って。航空券よ」

 「……」

 「すぐ出発よ。あさっての朝の飛行機。これ以上ここにいる理由はないでしょう?」

 智敏は手にした航空券を一瞥(いちべつ)し、そのまま尹に返した。

 「必要ない」

 「どうして? 帰らないつもり?」

 「さあ、どうでしょう」

 どことなく雰囲気の変わった智敏を見て、彼女は不思議そうに首をかしげたが、すぐに関心を持つことをやめたようだった。

 智敏は相変わらず遠い空を見つめるばかりで、会話は続かなかった。

 欄干に寄りかかっていた尹は体を起こし、彼女らしい短い言葉で別れを告げた。

 「何をするつもりなのか知らないけど、元気でね」

 17年10月村に行く前と比べ、さほど変わった点はなかったが、智敏は以前より早く起き、以前より遅く眠りに就くようになった。

 彼は朝早く起きるとジョギングをした。徐々に距離を長くしていき、モスクワ中を走破しようとするかのように、毎朝違う道を走った。

 毎日違うレストランでブランチを取り、授業のない日は図書館にこもった。図書館では主に新聞を読み、夕暮れ時になると市内を散歩した。

 いくらもしないうちに、モスクワに住む人々よりもこの街になじんだ彼は、いくつかの通りと食堂が気に入ったのか、そこだけを走るようになった。

 最終的に、コースは一つになった。

 やがて彼は、同じ道を走り、同じ食堂の同じ席に座り、同じ場所を散歩するようになった。

 そうしてある晩、彼は部屋でペンを執った。

 先生。俺はオシポーヴィチに会ったのに、妹の復讐(ふくしゅう)を遂げることができませんでした。あんなに長い間準備してきたのに、あんなにたくさん助けてもらったのに……。
 先生は、こうなることが分かっていたのでしょうか。俺が赦(ゆる)すことを願っていたのですか。しかし先生、俺は最後まで、すべてを赦すことはできないでしょう。俺はオシポーヴィチの代わりに──

 しばらくためらった後、智敏は紙が破れるほどペンに力を込めながら、言葉をつないだ。

 ──ソ連の心臓を撃つことにします。

 それが智敏の決意だった。

 17年10月村でオシポーヴィチに向けて吐き出すことのできなかった憎悪は、ソ連という国全体に向かい、ソ連の象徴一点に集中した。

 ゴルバチョフ。

 それまでの彼の行動は、ソ連の書記長を撃つという決心によるものだった。

 オシポーヴィチを殺すことができなかったのは、ソ連の国民は部品の一つにすぎず、いかなる不当な指示にも従わざるを得ないという事情を悟ったからだ。

 諸悪の根源は、この国のすべての人間の上に立つ、ソ連共産党の書記長だった。彼を消す。それこそが、死んだ智絢(ジヒョン)とソフィアのために自分がなすべき唯一のことだった。

 だから智敏は、モスクワ中を毎朝走り、レストランを回りながら場所を探った。

 智敏の通った道はすべて、クレムリンを出たゴルバチョフの車が頻繁に通る道だった。図書館で毎日「イズベスチヤ」に隅から隅まで目を通し、スクラップした記事はみな、ゴルバチョフの動静だった。

 モスクヴァレツキー橋の欄干に座って見つめていたのも、川の水ではなくクレムリンであり、その中にいるゴルバチョフだった。

 ゴルバチョフに関わるすべてが研究対象だった。

 彼の車の防弾設備はどの程度なのか、彼を撃つ武器を手に入れることは可能か、武器を隠し持ったまま待機できるポイントはあるか、警護に隙はないか、外出中にトイレに行く時はどうしているのか、訪問先の建物の警備状態をどうやって事前にチェックするのか。

 それこそ、ゴルバチョフのすべてに関して調査を重ね、非常にわずかでも可能性がある方法は、検討し尽くした。

 「頼まれたマカロフだ」

 路地裏の闇商人は布に包まれた一丁の拳銃を智敏に差し出した。

 「装弾は8発。射程距離は50メートルだが、30メートル以内でないと確実にあの世に送るのは難しいだろうな」

 智敏は大胆にも、拳銃を常に懐に入れて歩き回った。

 “俺は必ず死ぬ”

 自分の命を投げ出せば、道は開けると信じていた。

 こうして智敏は2カ月以上も、ゴルバチョフの暗殺ばかりを考えて過ごした。

 しかし、道はなかった。

 ソ連の要人警護、それも書記長であるゴルバチョフに対する護衛は完璧で、たったの1秒ですら一般人は接近不可能という、とてつもないものだった。

 あらゆるルートを考えてみたが、そのどこからも、針の穴ほどの可能性すら見いだすことはできなかった。

 「彼らはわざわざ世界最高の暗殺要員を集めて模擬実験をします。そこで芥子(けし)粒ほどの可能性でも発見されたら? 警護チームはその日で全員クビになります。そうやって集めた経験とデータが数十年分です。断言してもいいですが、暗殺など不可能です。アメリカの大統領が頂上会談の席で、カウボーイよろしく自ら拳銃を手にして撃つというのなら話は別ですが」

 専門家のもとを訪ね、冗談めかして尋ねると、相手は大仰に手を振りながらそう答えた。

 しかし、智敏はあきらめなかった。

 “あいつが退任する日までそれが不可能というのなら、その次の日まで待ってやる”

 恐ろしいほどの執念だった。

 毎晩幽霊のようにモスクワの路地裏を歩き回って犯罪者の話を聞いた。昼は狙撃ポイントとして見当をつけた店に足を運び、自分が顔なじみの常連客であることをアピールした。

 携帯可能なありとあらゆる武器を検討し、ゴルバチョフに関連のあるすべての人間のリストを作成して、彼らの子ども、兄弟に至るまで、シラミつぶしに調べ上げた。

 「一体誰を仕留めるためにそんなに躍起になっているんだ?」

 「ゴルバチョフ」

 酒を酌み交わしていた路地裏のごろつきは腹を抱えて笑った。

 「ゴルバチョフ、ハハハ、ゴルバチョフ」

 「ハハ、難しいよな?」

 「キューバのカストロを暗殺するためにCIAが立てた計画は600を超える。元恋人を抱き込んで、市街に爆弾まで設置した。だが、ことごとく失敗に終わった。ゴルバチョフがカストロに劣ると思うか? 自分がCIAよりも優れているとでも思っているのか?」

 事実だった。

 ゴルバチョフを取り巻く護衛は、一介の個人が穴を開けられるほど生易しいものではなかった。世界一の強国であるアメリカが全力を傾けても、成功する可能性は低いのだ。

 どの道をたどっても、到底越えることのできない壁が立ちはだかっていた。どんなに力を尽くしてみても、最後には不可能な計画だと結論づけるしかなかった。

 智敏は虚しく彷徨(ほうこう)した。

 毎日酒を飲んだ。自分の存在に対する懐疑とオシポーヴィチを撃てなかったことへの後悔、すべてがめちゃくちゃにもつれ合っていた。

 そんな時、智敏はイースト・ガーデンから来た一通の手紙を受け取った。

 4月10日、文(ムン)先生ご夫妻がモスクワに到着します。

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 次回(8月31日)は、「霧の中の邂逅」をお届けします。


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