2021.07.20 22:00
預言 22
ミッション・バタフライ
アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。
金辰明・著
22 ミッション・バタフライ
智敏(ジミン)がアメリカを発(た)ってから、いつの間にか5年もの歳月が流れていた。
その間に智敏の状況は大きく変わった。
彼はモスクワ大学との交流が最も盛んといわれるオーストリアのウィーン大学に入学し、人生で初めて接する天体物理学を勉強しながら、モスクワ大学への入学許可を申請しているところだった。
すぐにでも行けると思っていたソ連からは、5年が過ぎた今でも応答がなく、その長い月日の間、智敏はひたすら勉学に励んだ。
ソ連に入るために勉強をしなければならないとは……。智敏は机の前に座るたびに苦笑いを浮かべつつも、なすべきことに最善を尽くした。
幼い頃、両親や智絢(ジヒョン)に会いたくなると、いつも夜空の星を見上げ、一つずつ星に名前を付けていた智敏にとって、天体物理学は性に合っていた。
最初こそ、基本が一つも身についていないので、途方に暮れたが、勉強をすればするほど関心領域が広がっていき、知識の枠組みを押し広げていった。
しかし、それらすべてのことよりも、依然として彼の頭の中を支配していたのは、オシポーヴィチ、ただその名前だった。
智敏は眠りに就く前に決まってオシポーヴィチの名を呼び、朝起きてもその名前を繰り返した。
学問を深めていくにつれて、寛容さも増していったが、オシポーヴィチという名前だけは、彼の理解と赦(ゆる)しの範囲を超えたところにあった。
彼が勉強する理由、彼が生き長らえている理由は、ただひたすら、オシポーヴィチにあった。
「チョイ、君は本当に特別だよ。僕たちとは全く違う」
バタフライ作戦のメンバーとして、ブルガリアのソフィア大学に入るために待機しているオーストリア人のピーターが言った。
どんなに時が流れても揺らぐことのない智敏の精神力を見て、彼は驚きを隠さなかった。
「どこがそんなに違うんだ?」
「まず、本部からあらゆる支援を受けているじゃないか。僕やほかのメンバーは一切の支援なしに、各自で問題を解決しなければならないのに」
「金を多くもらっているところが違うってことか?」
「ハハ、冗談だよ。僕たちバタフライのメンバーは宗教を持っているが、君は宗教も信じていないのに、こんなにも固い意志を持っている。大したものだよ」
智敏はふと、バタフライ作戦についてもっと知りたくなった。
自分には妹の復讐(ふくしゅう)という具体的な動機があったが、彼らは一体何のために共産国家で自らを犠牲にしようとするのか。理解できなかった。
「ちょうど明日は休みだから、田舎見物でもするつもりでガフレンツにあるバタフライ作戦のキャンプに行ってみようか? チェコスロバキアのブラチスラヴァの監獄で亡くなったマリア・ジブナの追慕礼拝がある。彼女はチェコスロバキアの事件の時に捕まって、投獄されたんだ。僕らは、その犠牲を決して忘れない」
翌日、智敏はピーターの車に乗った。
ウィーン市内を抜けると、アルプス山脈の美しい景観が目の前に広がる。ガフレンツは、ウィーンから西に約160キロ離れた場所にある、50戸ほどの家が集まった閑静な村だった。
山脈の麓の緩やかな傾斜面につくられたこの村は、周りを黄色いタンポポに囲まれていた。
心地よく美しい風景。目の前に広がる緑が、さわやかなことこの上なかった。
「メンバーは、該当国家出身者を中心に選抜されるんだ。確固たる思想的武装、孤独と寂しさに打ち勝つことのできる精神力、そして家族や友人との縁をすべて断ち切る自発的な決断力が必要とされる」
「ばれたら当然、投獄されるか処刑されるだろうな」
「もちろんだよ」
「自由奔放な西ヨーロッパの人々が、そんなふうに精神的に強くなれる理由は何だろう?」
「み言(ことば)じゃないかな。文(ムン)先生のみ言だよ。命を捨てることになっても、意味のあることをしたいっていうホモサピエンスの本能が、冷戦を終わらせて平和な世界をつくろうという文先生のみ言と出会って、極限まで強くなったんだと思うよ」
バタフライ作戦のキャンプは素朴な作りだった。1階は応接室と大小の講堂があり、2階は宿所になっていた。
大講堂には「マリア・ジブナ追慕礼拝」という垂れ幕が掛かっていて、壁には彼女を追慕する絵や決意文が貼られていた。
「思っていたよりも簡素だな。東ヨーロッパの共産国家すべてにバタフライのメンバーが配置されてるのか?」
「もちろんさ。ポーランドからアルバニアまで、すべて入ってるよ。何かあれば、すぐに代わりのメンバーを投入することになっている。みんな、自分が入ろうと躍起になっているよ」
「無謀過ぎるんじゃないのか? そんなことで、冷戦が終わったり、共産主義が崩壊すると思うか?」
「一朝一夕には変わらないからって、やらないわけにはいかないよ。あの残酷な共産主義の殺戮(さつりく)を見てしまったら、じっとしていられるわけがない」
「いずれにしても、メンバーの精神力は驚嘆に値するよ」
「ハハッ、でもあと2年だからね、もうすぐさ」
「2年?」
「文先生が、共産主義の崩壊は1991年と預言されたんだ」
智敏は以前、ダンベリー刑務所で文総裁がカプラン博士に向かって、7年以内に共産主義が崩壊すると発表せよと言ったことを思い出して、フッと笑った。
ピーターのような人々が文総裁を信じ、命懸けで共産主義国家に出入りしているのはさておき、何の根拠もない話に慰めを求めているのは何ともおかしかった。
ウィーンに戻った智敏を待っていたのは、喉から手が出るほど待ち焦がれたニュースだった。
「ジミー、事務室に国際郵便が届いてるよ。差出人はモスクワ大学の入学事務局長だって!」
とうとう、モスクワ大学から入学許可書が届いた。
ついにソ連行きのチケットを手にしたのだ。智敏はぐっと拳を握りしめ、うんざりするほど見上げてきた夜空に向かってあふれる決意をぶちまけた。
“今度こそソ連に行くぞ。智絢、俺たちがまた会う日も遠くないからな”
モスクワの晩秋は鈍色(にびいろ)にかすんでいた。
濃い灰色の空気の合間から見えるくすんだコンクリートの建物と、どこか硬直して見える人々。
法であれ規則であれイデオロギーであれ、少しでもそれらを犯せば、すぐさま連行するかのようににらみつける警察。
笑いもユーモアもない共産主義の首都モスクワは、深い沈黙で智敏を包んだ。
「晩年、アインシュタインは幸せだったろうか?」
指導教授であるウラジミール・ドリロフは、おかしな質問で智敏を迎えた。
「一生を整然とした重力の世界に捧(ささ)げた彼は、量子力学の不確定性を受け入れることができませんでした。真実と向き合って自分の一生を否定されるのは、耐えがたい苦痛だったと思います」
「ふむ、それで彼の脱出口は?」
「Theory of Everything. 万物の理論、つまり宇宙に存在するすべての力を説明できる唯一のルール。そんな方程式を探し出そうとしました」
「そのとおり、統一場理論だ。君は可能だと思うかね?」
「可能だと思わなければ、生きていけないのが人間です。真理に向かう歩みを止めたら、その瞬間、人類は悲痛で過酷な現実に満足して生きるしかなくなりますから」
「絶えず神に向かって挑戦すべきだ、という意味かね?」
「神は見る者によって異なる形で現れます。科学者にとっての神とは、数字です」
「ブラボー! 実にロマンあふれる答えだ」
ドリロフは豪快に笑った。
「モスクワの科学者たちは哲学を失った。もしかすると彼らの科学──宇宙をより遠くまで航海し、新兵器を開発する技術こそが科学の本質と一致しているのかもしれないが……そうだな、私はロマンを追い求めていた頃のほうが懐かしい。あのアメリカのくそったれどもと競争しながら、最先端を目指して叫び散らす今よりも、宇宙を究明するために死に物狂いになっていたアインシュタインの時代が懐かしいよ」
「俺もです」
ドリロフは智敏が気に入ったらしく、親しげに肩を叩(たた)いたが、その一方で心配そうに言った。
「このモスクワ大学には北朝鮮の学生がたまに来るが、韓国の学生は君が初めてだ。大学当局は君の動きにさぞ神経を尖らせていることだろう。私は君のことをとても気に入ったが、彼らはそうでもないらしい」
「気をつけます」
「市内に部屋を借りるといい。寮を提供すると言ってくるかもしれんが、そうすると大学が君の一挙手一投足に干渉するだろう。共産主義の思想を乱すかもしれないと思ってな」
「分かりました」
「では、来週の授業で会おう。君には期待できそうだ」
ドリロフ教授はどこか自由奔放に見える人で、一目で智敏を気に入ったようだった。
緊張がほぐれ、気持ちが楽になった智敏は、すぐにでもあちこち訪ね回ってオシポーヴィチを捜したい気持ちをぐっと抑えた。
ソ連は尹(ユン)の話以上に硬直していて、いつどこにいても見張られているような、落ち着かない気分にさせられる国だった。
まずはソ連に慣れなければならない。授業のない日は、モスクワのあちこちを歩き回った。
モスクワは荒涼としていた。
太陽の昇っている昼は短く、楽しそうにおしゃべりしている人々を見かけることはほとんどなかった。からからに乾いた風にさらされて、うつむいたまま道を急ぐ人が大部分だった。
時折、警察に連行される人を見かけた。彼らは例外なく、反抗する素振りを一切見せず、下を向いて静かに引っ張られていった。
“ソフィア”
彼女の軽やかで明るい表情にはおよそ似つかわしくない国だった。彼女はこの地で、どんな顔をして過ごしていたのだろう。
奇(く)しくもモスクワ大学は、彼女の母校だった。彼女が通ったロシア文学科の前を通るたびに、智敏は彼女への想(おも)いが湧き上がるのを制止することができなかった。
彼女が時折話してくれた学生時代の舞台がまさに目の前にあるというのに、無視して通りすぎるなど、できるはずもなかった。
よくサンドウィッチを食べながら絵を描いたという木の下のベンチも、古い建物の壁の落書きも、ソフィアの話に出てきたそのままだった。
智敏は人目につく行動は何もしないと決意していたが、かつてソフィアが座ったベンチに腰を下ろして彼女を想ったり、乱雑に書き殴られた落書きを見つめながら、その場に立ち尽くすこともあった。
「ソフィア!」
彼女から便りが来なくて、憎しみと恨めしさで何十回も夜を明かした。
手紙を読んで事情を知った瞬間、心臓をわしづかみにされ、目頭が熱くなった。
思い出すたびに、もう過去の記憶にすぎないのだと強く首を横に振り、彼女を心の外に追い出そうとした。
しかし、ただ一目、もう一目会いたかった。
もし会えば、お互いにとって危険であることは分かっていたが、それでも、無事かどうかだけでも確かめたかった。
何事もなく幸せに暮らしているなら、自分は姿を見せずに、潔く立ち去るべきだ。しかし、どうにかして、偶然にでも会えないものだろうか。
最後はいつも、もう忘れよう、と気持ちの整理をして立ち上がるのだが、翌日にはまた気持ちが揺らぐのだった。
ロシア文学科の前のベンチは、智敏が一番長く時間を過ごす場所になっていた。
---
次回(7月27日)は、「ロシア文学科」をお届けします。