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預言 23
ロシア文学科

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

23 ロシア文学科

 「ビッグバン以前の状態がどのようなものであったのか、知る方法はありません。しかし、有力な可能性の一つとして、ビッグバンとは、二つの宇宙の間に発生する衝突ないし接触ではないかという説があります。ひも理論では、無数の宇宙が存在すると主張しています」

 大学の授業は水準が高かったが、智敏(ジミン)は優等生であると見せかけるため、真面目に学業に取り組んだ。

 ドリロフは智敏が発表するたびに喜び、拍手を送ってくれたが、この日はじっと智敏を見つめるだけで、発表が終わると机をトントンと叩(たた)きながら、不満そうな声を上げた。

 「ジミー、私がいつ一般的学説をまとめろと言った? いつもストレートで独特な仮説を立てるスタイルが良かったのに」

 「申し訳ありません」

 「少し話をしようじゃないか。君の論文のテーマだが、考え直す必要がありそうだ」

 ドリロフは智敏を連れ、論文のテーマの代わりにあれこれと雑談や冗談を交わしながら、キャンパスを歩き回った。

 智敏は直感的に、彼が辺りをうかがっていること、実は何か話があって、わざと自分の発表を酷評したのだということを悟った。

 過去にスターリン時代の恐怖政治を経験しているドリロフは、慣れた様子で周囲に目を配り、彼らの話を聞いている者がいないことを確認した上で、ゆっくりと本題に入った。

 「君は暇さえあれば、独りでロシア文学科前のベンチに座っているそうじゃないか」

 智敏は仰天した。

 ドリロフの耳に入るほど、大学側は自分の挙動を注視しているのか。予想していたより、監視は何倍も厳しいようだった。

 驚いたことはおくびにも出さず、智敏はおとなしくうなずいた。

 「はい」

 「彼らはその理由が知りたいようだ」

 「それは……」

 ドリロフ教授は智敏の言葉を遮るように言った。

 「最後まで聞きたまえ」

 「はい」

 「いくら待っても、誰かと会うわけでもない。だから余計に注意を引いているのだ。監視対象である外国人が、ただでさえ問題児の多いロシア文学科の建物の前にいるのだから、彼らが関心を持つのも当然だろう」

 「ロシア文学科にいる問題児というのは、どういう……」

 「反体制派の学生たちだよ。もともと文学というのは、抵抗だろう?」

 「そうでしょうか? 俺はただベンチに座って休んだり、思索にふけったり、天体物理学のことを考えたりしていただけですが」

 「重要なのは、君とロシア文学科との関係を、彼らが見つけ出したという事実だ。実際、君が何をしていたとしてもね」

 「え? どういうことですか? 俺とは何の関係もありませんよ」

 「君は、ロシアが一番警戒しているのは何か知っているかね?」

 「……」

 「アメリカという国だ」

 智敏はうなずいた。

 冷戦を主導する二大国家であるアメリカとソ連は当然、相手を何よりも警戒しているはずだ。

 「昔は、ロシアからは誰もアメリカに行かなかった。行くことができなかったんだ。絶対に許可を出さなかったからな。ゴルバチョフ書記長が必死になってグラスノスチ、ペレストロイカを叫ぶ今でも、アメリカに行くことは困難を極める」

 「よく分かっています」

 「しかし、この数十年間でたった一人、ロシア文学科からアメリカに行った者がいる」

 「……」

 「その人間がアメリカにいた当時、君もアメリカにいたというのだ。さあ、それが誰か、もう分かるだろう?」

 “まさかソフィアのことを言っているのか?”

 一瞬、智敏は迷ったが、すぐに判断を下した。

 ドリロフはこの孤独で危険な地で、自分の味方になってくれるかもしれない唯一の人物だった。智敏は素直に答えた。

 「ソフィア・アレクセーエヴナ」

 「そうだ。正直に言ってくれてありがとう。もう一つだけ聞こう。アメリカで彼女と付き合っていたのか? 恋人として、という意味で」

 「そうです」

 「やはりそうだったか。良かった」

 ドリロフは心底安心したように、緊張した表情を緩め、うなずいた。

 智敏は状況が理解できず、何か尋ねようとしたが、ドリロフは再び表情をこわばらせ、智敏の肩を引き寄せた。そして顔を近くに寄せて、頼み込むように言った。

 「ここまでなら大丈夫だ。しかし、これ以上進んではだめだ。彼女の行方を追おうとしたり、接触しようとしたりしてはいけない」

 「……」

 「捜すこともないだろう。どちらにしろ彼女は大学に戻ってこなかったのだから」

 智敏の胸がどきりとした。

 ソフィアは間違いなくアメリカからソ連に帰ったし、何事もなければ当然、大学に復学して、卒業しているはずだった。

 やはり何かが起こっていたのだ。十中八九、自分の無罪を証明したあの手紙のせいに違いない。胸の中の不安が現実となった瞬間だった。

 「ソフィアは大学に戻ってこなかったんですか?」

 「知らなかったのか? 2年目を終えて休学し、アメリカに渡った。その後は戻ってきていない」

 智敏は唇を震わせながら尋ねた。

 「教授、もしかして彼女がどこにいるのか、彼女に何があったのか、ご存じじゃありませんか?」

 教授は首を横に振った。

 「お願いです。調べていただけないでしょうか?」

 「それを知ろうとすれば、君はあとで非常に苦しむことになるぞ」

 「どうしてですか? たかが……」

 「今なら君の行動に対して、様々な解釈の余地がある。ベンチに座って、昔の恋人を懐かしがっているということにしておける……」

 「……でも?」

 「だが、君が彼女の行方を追おうとしたりすれば、事態はややこしくなる。もしや、彼女が変節してアメリカのスパイになったのではないか、だから君は彼女と密かに連絡を取るためにここに来たのではないか、というように」

 教授の言葉は、ソフィアがまだ思想犯やスパイとして捕らえられたわけではないことを示唆していた。

 最悪の状況ではないことから、智敏は一方で胸をなで下ろし、従順にうなずいた。

 「彼らも事が大きくなることを望んではいない。今までの君の行動に多少おかしいところがあっても、何か問題を起こしたり、不穏な動きとつながっていたことはなかったからな」

 「分かりました。捜したり接触しようとしたりはしません。大学に戻らずに結婚した、という可能性もありますよね。でも教授、彼女が無事に、幸せに暮らしているかだけでも知りたいんです。教授の力をお借りするわけにはいきませんか?」

 智敏のあまりにも切々とした頼みに、しばし口を閉ざしていたドリロフは、ため息をつきながら答えた。

 「私の予想だが、おそらく何もなく平穏に暮らしているとはいえないだろう。モスクワ大学の学生は結婚しようが、何をしようが、必ず卒業証書を手にしようとするものだ。一生涯の誇りであり、肩書きになるからな。しかし、手続きが難しいわけでもないのに、彼女は休学延長の申請すらもしなかった」

 ドリロフの言葉は、智敏の胸に再び大きな不安を植えつけた。まだスパイとして捕まっていないだけで、失踪や蒸発などの異常事態に置かれているも同然ということだ。

 智敏はうなだれたまま、教授のもとを辞し、宿所に向かった。


 1週間が過ぎても、彼の頭の中はソフィアのことでいっぱいだった。

 あらぬ疑いをかけられぬよう、講義だけは休むことなく出席していたものの、心配と不安で押しつぶされそうな日々を過ごした。オシポーヴィチを捜さなければならないという執念も、停止してしまっていた。

 そんなある日、彼は久しぶりに朝から酒を飲み、酔ったまま文学科近くのベンチに座ってつぶやいた。

 「智絢(ジヒョン)、赦(ゆる)してくれ。ややこしいことになろうとも、今はソフィアを捜さずにはいられないんだ」

 彼は突如立ち上がり、ロシア文学科の建物の中に入っていった。

 初めて入る建物の中には、廊下に沿ってトルストイ、ドストエフスキー、チェーホフなどの立派な肖像画が掲げられており、端にはみすぼらしい額が一つ、若干傾いたまま掛けられていた。

 革命によって蹂躙(じゅうりん)された愛とヒューマニズムを描いたボリス・パステルナーク。

 その肖像画の右側下段には驚くべきことに、ソフィアの名前が書かれていた。自分が描いたパステルナークの肖像画が大学の壁に掲げられていると、誇らしげに語った彼女の姿を思い出した。

 智敏は指を伸ばして彼女の署名をなでてから、学科事務室のドアを勢いよく開けた。

 「何の用ですか?」

 事務室には3人の女性がいたが、そのうちの一人が智敏を見て鋭い声を上げた。

 「ソフィア・アレクセーエヴナを知っている方はいませんか?」

 彼女らはびくりとし、一瞬、お互いの顔を横目でうかがった。

 まだ酔いはさめていなかったが、智敏は3人の女の顔をすばやく観察し、その反応を見逃さなかった。智敏はうなずくと、女たちが口を開く前に言い放った。

 「良かった。3人とも彼女をご存じなんですね」

 赤い髪の女がとげのある声で言った。

 「なぜ勝手に決めつけるんですか? 誰もそんな人は知りません」

 そう言いながら一歩前に進み出る女の姿を見て、智敏は確信した。

 知っていると告白しているも同然だ。彼は燃える目で3人の女を代わる代わる見つめたが、女たちはみな首を横に振った。

 「知りません」

 「知っていながら、なぜ知らないと言うんですか? 一体何を恐れているんですか?」

 「知らないって言っているでしょう! そんな女、生きていようが死んでいようが、知ったことじゃないわ」

 智敏は胸ぐらをつかんでやりたい衝動を辛うじて抑えた。

 末端の職員までもがソフィアを知っているということは、おそらく相当話題の人物になっていたに違いない。

 しかし、職員がみな知らない振りをしているところから見ても、ソフィアが無事であるはずはなかった。

 “彼女は間違いなく、危機に瀕(ひん)している”

 そう確信した瞬間、智敏の燃えさかる胸は、逆に落ち着き、冷静になっていった。

 彼女が本当に不幸に直面しているのなら、これ以上刺激するのは良くない。いたずらに引っかき回してはだめだ、という声が頭の中に響いた。

 「あなたは誰なんですか?」

 智敏が口を閉ざし、おとなしくなると、赤い髪の女が荒々しい口調で問いただした。

 「その女とはどういう関係なんですか?」

 食い入るように赤髪の女を見つめていた智敏は次の瞬間、なりふりかまわず、その場に膝をついた。

 「どうか、お願いですからソフィアに会わせてください。俺は彼女を心から愛してるんです」

 突然の彼の行動に、女は言葉を失った。

 智敏は彼女に近づいていき、その腕をつかんで哀願した。

 「彼女は俺のすべてなんです。彼女に会えないのなら俺は死んだも同然です。どうか会わせてください」

 酒の臭いをぷんぷんさせながら、涙でぐちゃぐちゃの顔を腕になすりつけてくる智敏に、女は恐れをなし、彼を突き飛ばして辟易(へきえき)した顔で叫んだ。

 「出て行って! 今すぐ! でなければ人を呼ぶわよ!」

 智敏は女たちを背にし、おぼつかない足取りで倒れそうになりながら文学科の建物を出た。

 しかし実際のところ、彼の頭の中はこれ以上ないほどに澄み切っていた。

 “イゴール・アレクセイ”

 突如として智敏の脳裏にその名前が浮かんだ。

 ソフィアに何かあったのだとすれば、それはおそらく、彼女一人の不幸ではないはずだ。ソフィアの父親は参事官という地位にあったし、ソフィアの手紙には、父親がアメリカで何かしらの秘密工作に関わっていて、娘の自分を利用したという事実がはっきりと記されていた。

 トラブルがあったとすれば、ソフィアでなく彼女の父親の名前が、より大きな問題として取り沙汰されたはずである。なぜ今までそこに気づかなかったのだろう。

 大学の図書館に向かった智敏は、政府機関紙「イズベスチヤ」を探した。

 六年前に発行されたものから取り出して読み始めた彼は、恐ろしい執念で新聞の隅々にまで目を走らせた。

 終日、記事を調べ続け、翌日もその作業に没頭した智敏は、ある日付の記事を前にして目を見開いた。

 1984年11月30日
 ソビエトの優れた働き手として、長きにわたって外務省で働いてきたイゴール・アレクセイ同志が、長い間患っていた持病を悲観し、自ら命を絶った。同志の偉大な労苦に謹んで哀悼の意を表する。遺族は娘が一人。

 智敏はうめき声を漏らしながら、血がにじむほど強く唇を噛(か)みしめた。

 持病だと? 1984年といえば、自分と一緒に食事をした年だ。

 当時、イゴールは至って健康に見えた。海外で秘密工作を行っていた彼が、それも非常に精力的な姿を見せていた彼が、持病を悲観して自殺したという事実を、どう受け止めるべきか。

 また、なぜ遺族はソフィアのみで、彼女の母親に関する言及がないのか。

 答えは一つしかなかった。間違いない。イゴールは消され、夫人もまた運命を共にしたのだ。

 「ああ……」

 だが、ソフィアだけは生きているのだ。

 今度こそ本当の涙を流しながら、智敏は彼女の悲痛な運命を嘆いた。おそらく生きているとしても、生きた心地などしない毎日を送っているに違いない。

 智敏を救うために書いた1通の手紙によって両親を失い、自らの運命を悲観しながら、どこかの冷たい流刑地で何とか生き長らえているのだろう。

 智敏は押し寄せる悲しみともどかしさをどうすることもできず、大声を上げた。

 ページをめくる音だけが時折聞こえてくる静かな図書室で、彼は恨みのこもった叫び声を上げた。

 ソ連は赦しがたい国だった。決して地球上に存在してはならない国だった。

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 次回(8月3日)は、「17年10月」をお届けします。


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